Establecida en 2010

Escrito por Tomoko Ikeda del ITT

Sr. Japón y Hasekura san

Japón さんと支倉さん

〜 日本とスペイン400年の時と海を超えた出会い 〜

Fundado en 1995

スペイン語翻訳通訳

Instituto de Traducciones de Tokio

Sonríe y mejora tu idioma.

ここは日西翻訳通訳研究塾ホームページ「支倉 と Japón san」のページです
     
 
 
 

「折り紙・日本語・伝承 −日本人の痕跡 その1−」
− Episodio XI −


シエスタ中のハポンさん一家にお邪魔した私は、ふるまわれたビール片手に彼らにインタビューを開始した

私が今回一番知りたかったことは、蒙古班以外(参照:Episodio-04 / Episodio-05)に、日本人の痕跡が残っているかどうかである。慶長遣欧使節がコリア・デル・リオに上陸したことは、残されている数々の歴史的資料から見ても間違いはないだろう。しかし、そのうちの何人かが現地に残り、その後当地の女性と結婚し子供を儲けたという証拠はない。そのため、日本人の痕跡が少しでも残っていれば、それはハポン姓を持つ人々が慶長遣欧使節の子孫であるのではないかという謎を解く手掛かりの一つになるのではと考えたのである
ハポンさん達は、私の質問にゆっくりと、丁寧に、そして真剣な顔で答えてくれた
以下は、彼らから聞いた話をまとめたものに私なりの見解を付け加えたものである
 
1)折り紙
ハポン姓を持つ人々の家には、「折り紙の折り方」が代々伝っているという。いつごろから、どのように伝わったのかは明らかではないが、私が折ったツルを見て、フランシスカさんは子供の頃このツルの折り方を祖母から教わったという。彼女の息子さんであるフアンさんは30歳前後なので、フランシスカさんは推定年齢60歳くらいである。容姿からしてもそのくらいに見えた。仮に彼女が60歳であるとして、その祖母の代にはすでに折り紙の折り方が伝わっていたのだから、約1世紀近く前まで遡ることとなる。しかし、その時期に訪れた日本人が折り紙の折り方を教えたのか、それとも使節の一行が伝えたのがそのまま残っているのかは定かではない

また、19世紀にはヨーロッパにも独立した折紙の伝統があったという説もあり、スペイン語でパハリータという小鳥の形をした折紙もあるという。そのため、フランシスカさんが知っている折紙の折り方は、もともとヨーロッパにあった折紙の折り方という可能性も高い。折紙に関しては、更なる調査をし、後の章で述べたいと思う
 
2)日本語
コリア・デル・リオには日本語を話せる人はいない。しかし、昔からなぜか「ワラジ」、「ビョウブ」、「ハシ」という日本語だけは伝わっているという。そして、これらが伝わった経緯は折り紙と同様に全く明らかにされていない

「ワラジ」という単語に注目してみたい。使節はメキシコ経由でスペインに入港したのだが、メキシコに寄った際に、一行のうちの何人かが現地で逃亡したという事実がある。逃亡した彼らが移り住んだ可能性の最も高いメキシコのゲレロ州の集落に、「ワラジ」が訛ったと思われる「ワラッチ」という言葉がある。そしてそれは日本のわら草履に似た革製の草履であるらしいのだ(『支倉常長』、大泉光一著、66頁)

コリア・デル・リオに残る「ワラジ」という単語も、メキシコに残った日本人が伝えたのと同じように伝わったと考えられるのではないだろうか。メキシコの「ワラジ」が使節の日本人が伝えたものだとしたら、コリアの「ワラジ」も同じく使節の日本人が伝えたものだと考えやすい

しかし、コリア・デル・リオでは、「ワラジやビョウブなどの日本語がある」ということを知っているというだけで、その言葉が何を指すかは知らないようであった。また、ザジズゼゾの発音がしないスペイン語の中で、「ワラジ」の「ジ」をどのように発音していたか、スペイン語ではどう表記するか等は曖昧であり、更なる調査が必要である。上記で述べた折紙と同様に、今後の課題として調査し、後の章で報告したいと思う
 
3)伝承
ハポン姓を持つ人々に共通に伝わっていること、それは「先祖は日本から来た侍である」ということである。インタビューをしたフランシスカさん一家はもちろん、亡くなったビルヒニオさんも幼少の頃から、「先祖は1614年にコリアを訪れた日本の使節である」という話を祖父から聞かされていたという。ビルヒニオさんは享年67歳であったから、彼の祖父というと、やはり1世紀前まで遡る。他にも、ハポン姓を持つ家には代々同じようなことが伝えられていたようだ

ハポン姓はそのほとんどがコリア・デル・リオに住んでいるが、マドリードとバルセロナにも一件ずつハポン姓が確認できる(第一姓がハポンに限る)。東海大学の太田尚樹先生は、この2件のハポン姓に電話をかけ、「先祖が日本人であると聞かされたことがありますか」という質問をされたが、マドリードの方は「亡くなった母が一度だけそのようなことを言っていた」という答えが返ってきたらしい。バルセロナのハポン姓もだいたい同じような答えであったという(『ヨーロッパに消えたサムライたち』、太田尚樹著、237頁)。家族によって、伝わっている内容の濃さは違っていた

マドリードの例のように、先祖は日本人であったということだけが伝えられている家もあれば、ビルヒニオさん達のように、慶長遣欧使節の歴史まで細かに伝えられている家もあった。それは、自らの姓の起源に対する興味に反映している。「特に関心は持っていなかった」というハポンさんも中にはいた。ただ、関心の有無や内容の濃さに関わらず、「先祖は日本の侍」ということがどの家庭にも伝わっていることは確かである。それも一世紀以上も前からである。『火の無い所に煙はたたぬ』というが、この言い伝えは使節の一部の日本人がこの地に留まったという証拠の一つと捉えられるのではないだろうか