谷 めぐみ の 部 屋
 


 

===========================================
Hola Barccelona
===========================================


スペイン歌曲の歌い手

「谷 めぐみ」の歌修行 "Hola! バルセロナ" - その31 -

¡Hola! バルセロナ(31)
民謡の宝庫スペイン!多くのスペイン人作曲家が自国の民謡を誇らかに愛し、その旋律やリズムを基にした作品を残している。民謡が放つ“スペインの香り”こそ、我ら外国人音楽家が心魅かれる最大の要素かもしれない。M先生もカタルーニャを始めとして、アンダルシア、セファルディーなど様々な民謡を編曲していた。そして何と!未発表の作品の中に、日本の民謡を編曲したものがあるという。「ソーラン節」「おてもやん」「こきりこ節」「音戸の船歌」等々。もう何年も前に日本の友人T先生が送ってくれた楽譜の中から20曲ほどを選んで編曲した。しかしその後、何の進展もなく時が過ぎた。半年前、突然日本から弟子が飛び込んできた。しかもその弟子は“語学好き”らしい。もしや…と、すっかり諦めていた作品を棚の奥から取り出した、というわけだ。日本古謡「さくら」も加え、出来れば『日本民謡集』として出版したい、というのがM先生の意向だった。驚いた。そして嬉しかった。日本の歌に興味を持ってくれたこと、そして何より、ご家族みんなで私を支えてくれているM先生のお役に立てることが嬉しかった。これが、茶をたてろ、花を活けろ、というのなら、私にはお手上げだ。しかし出版の件は、翻訳をしたり、字を書いたり、自分が好きなことを通じて、M先生にささやかなご恩返しが出来るのだ。「もちろん喜んでお手伝いします!」力が湧いてきた。さっそくスケジュールを話し合った。曲はもう出来上がっているのだから、要は、日本語に関する私の作業次第である。「何が何でも帰国までに完成させる」私は決心していた

日本から資料を送ってもらい、歌詞の西訳が始まった。民謡の歌詞は素朴なものである。その根底に人々の喜び、悲しみ、嘆き…様々な思いが隠されている。M先生に日本人の情感を伝えながら西訳を進める作業は興味深いものだった。どういうわけか、話がよく通じた。M先生には日本の情緒、感性を極めて違和感なく受け入れる何か、日本語で言う「つうかあ」に近い感覚があった。正真正銘のスペイン人なのに不思議である。日本の風土、歴史、死生観、はてはヨガや仏教に至るまで話が弾んだ。「きっとM先生の前世は日本人。禅のbonzo(お坊さん)よ」「そう、そう。墨染めの衣を着せたら似合いそう」先生宅からの帰り、三樹子さんのお宅に寄ってよく二人でオシャベリしたものだ

当時はまだパソコンはおろかワープロさえ無い時代である。日本語の部分はすべて私が手書きすることになっていた。筆記具はどうしよう?ボールペンは字体が崩れやすく、持っている万年筆は書き心地が悪い…。「いいものがある!」M先生が出してきたのは、飾り彫りが美しい古風なペン。中国旅行の記念に買ってきたものだそうな。大丈夫だろうか?一瞬不安がよぎったが、エーィ!これも記念だ!と、使うことに決めた。歌詞、解説その他すべてを翻訳し、一文字ずつペンで書いていく作業は膨大なものだった。「とんでもないことを始めたわねェ」エレナは呆れている。しかし私は楽しかった。夜中、シーンと静まり返った部屋でひたすら机に向かう…。ふと受験生時代を思い出す。もう日本もスペインもない。どこにいても同じだと思った

M先生は何度か日本を旅したことがあった。京都の平安神宮や伏見稲荷で見た鳥居の色が忘れられない、と言う。「表紙は鳥居の朱色。そこに『日本民謡集』と、真っ黒い漢字を並べる」表紙のイメージは固まっているようだった。表紙にペン字は使えない。さて、どうしたものか…。父のことが心に浮かんだ。私の父は翠山の名をもつ書道家だった。いかつい外見からは想像もつかない流麗な筆字をサラサラと書いていた。私はM先生に「表紙には毛筆がふさわしい」と説明し、父に依頼の手紙を書いた

スペインの歌のレッスンと日本の歌の仕事。私は元気になった。毎日が忙しく充実していた。そんなある土曜日、エレナとランチの待ち合わせをした。ところが、いつもは時間に正確な彼女が約束の2時を過ぎても現われない。待つこと一時間。諦めて帰ろうと思いかけた時、通りの角を曲がって彼女がやって来た。「メグミ、遅れてごめんなさい」憔悴しきった様子、目の下に真っ黒なクマが出来ている。一体どうしたの?

(つづく)
  以上は、日西翻訳通訳研究塾のメールマガジン『塾maga2011年06月号(No.128)』に掲載されたものです