谷 めぐみ の 部 屋
 


 

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Hola Barccelona
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スペイン歌曲の歌い手

「谷 めぐみ」の歌修行 "Hola! バルセロナ" - その33 -

¡Hola! バルセロナ(33)
エレナが帰国する日がきた。M先生には「大事な友人を駅まで送るので」とだけ説明してレッスンを休ませてもらった。詳細は話したくなかった
いよいよアパルタメントを出発する時間だ。エレナは緊張していた。いつものように軽口をたたこうと玄関で待機していたポルテロのおじさんも、エレナのこわばった顔に驚き、「Bueno…」と言葉を飲み込んでしまった。大通りでタクシーを拾う。後部座席に並んで座ると、エレナは私の手をギュッと握り「私は本当に帰れる?」と、何度も繰り返した。小さな子どものようだった。「大丈夫!何の心配もない!」私も何度も繰り返した
エレナのピソに着いた。長居は無用、タクシーを待たせたまま中に入る。ホセがいた。「Hola!メグミ」エレナには目もくれず、しゃあしゃあと私に話しかけてくる。どこまでも呆れた奴だ。「Adiós」自室から荷物を持って出てきたエレナが吐き捨てるようにと言ったが、ホセは返事もせず、メガネの奥の細い目でジーッとエレナを見つめている。私たちはさっさとピソを出た。ものの5分も経っていなかっただろう。再びタクシーが走り出した。エレナは放心したように座席にうずくまっている。会話無し…。ほどなく目的地、テルミノ駅に着いた
長距離列車が発着するテルミノ駅。夕暮れのカフェテリアは列車を待つ人でごった返していた。ふと、子どもの頃テレビで見た古い洋画の一場面に迷い込んだような気がした。コーヒーカップを片手にウロウロと歩き回り、ようやく空いている席を見つける。椅子に座るやいなやエレナはポケットに手を突っ込み、千ペセタ札(まだペセタの時代!)2枚とありったけの硬貨をテーブルの上に放り出した「これ、今、私が持っているペセタ全部なの。泊めてもらったお礼に持っていってね」「何言ってるの?お金なんて受け取れない。そんなつもりで泊めたんじゃない!」驚く私にエレナが言った。「聞いて。メグミがそんなつもりじゃないことはよく分かっている。私はペセタとお別れしたいの。メグミはスペインが大好きで、また来たいと思っているでしょう?でも私はスペインが嫌いになった。もう二度と来たくない。スペインに来ないのだから、ペセタを使うこともない。ペセタを持っている意味がない。だからメグミに使ってほしいの」返す言葉が見つからない。「分かった。それじゃ大事に、でもパーッと使っちゃうね」と、努めて明るく答えるしか仕方がなかった
いよいよ発車時刻が来た。「いろいろ本当にありがとう。3月のコンサートを聴けなくてゴメンなさい。必ず成功すると信じている。もう会えないかもしれないけれど…。元気でね」ホームで挨拶を交わし、エレナはデッキに立った。たぶん本当にもう二度と会えない、そんな気がした。いつの間にかゆっくりと列車が動き出す。お互い、精いっぱいに背伸びをして手を振り合う。昔見た洋画のようだ、と、また思った。列車は静かに遠ざかり、やがて姿が見えなくなった
アパルタメントに帰ると、玄関でポルテロのおじさんが待ち構えていた。「ひとりか?友だちはどうした?」「彼女は国に帰ったの」「国って、どこだ?」「スゥエーデン」「そりゃ遠いなぁ…」「…」突然、おじさんは例のゴリラのポーズで胸を叩いて言った「castigada(おしおきだ)!」慰めてくれているのだ。おじさん、ありがとう
ついさっきまでエレナがいた部屋は、また私ひとりの空間になった。ソファベッドを元の位置に戻す。彼女を助けるつもりが、束の間のルームメイト登場で心の張りを得ていたのは、実は、私のほうだったかもしれない。列車は今頃どこを走っているのだろう…。彼女はひとりでどうしているだろう…。寂しがりの虫がムズムズとうごめいていた。いけない、いけない。私は「日本の歌」の原稿を取り出し、いつもと同じように作業を始めた。こういう時に没頭できることがあるのはありがたい、心底そう思った
(つづく)
  以上は、日西翻訳通訳研究塾のメールマガジン『塾maga2011年08・09月 合併号(No.130-31)』に掲載されたものです