谷 めぐみ の 部 屋
 


 

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Hola Barccelona
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スペイン歌曲の歌い手

「谷 めぐみ」の歌修行 "Hola! バルセロナ" - その36 -

¡Hola! バルセロナ(36)
いよいよリサイタル当日。天気は大雨。時折ビューッと台風もどきの風まで吹いている。湿気が多いと髪の毛はますます膨張して始末に負えない。やはり美容院に行くことにしてよかった。諸々準備を済ませ、予約の時間に出かけた

「いらっしゃいませ」美容師のおじさんは今日も満面の笑み。愛想よく私を椅子に座らせ、七か月で伸びに伸びた髪をブラシで勢いよく梳き始めた。が、いつまでたっても、ただ髪を引っ張ったり束ねたりしている。ふと不安になった。「予約の時にお願いしたこと、覚えていますよね?今夜コンサートで歌うのです。ドレスを着るので、それに合う髪形にしてほしいのです」「えっ?コンサート?そうそう、そうでしたね。もちろん覚えています。お任せください」「…」「ところで」突然、おじさんが質問してきた「cantante(歌い手)なら、ホセ・カレラスを知っていますか?」「もちろん」と私。「それは素晴らしい!そうです、あの!あの!ホセ・カレラスです。実は、私の親戚の友人の妹のご主人の同僚の奥さんの弟が彼と親しくてね。こう見えて、私もクラシック通なんですよ。オペラにもしょっちゅう行きます。リセウ!あの豪華な劇場!私はあそこの支配人と友達でね。まぁ、これというオペラはすべて見ました。ヴィクトリア・デ・ロス・アンへレスを知っていますか?モンセラ・カバリェも?アハハ!もちろんですよね。バルセロナにはスターがいっぱい!彼らは偉大です。我らがバルセロナ!ってところです。バルセロナにはもう一つ忘れちゃいけないものがある。バルサ、そうバルサです。有名なサッカーチームですよ。カンプ・ノウはすぐ近く。ご存知ですか?おっと失礼。お客様はcantanteでしたね。日本といえば、ほら、有名なオペラがあったでしょう。ええと、ええと…」ひとりでベラベラよく喋る。一方髪は、というと、どんな仕上げになるのか、さっぱり分からない。前や後ろをつまんでチョンチョン切り、頭皮が火傷しそうなほどドライヤーをかけ、そのあげく今度はカーラーで髪を巻き始めた。これから巻く?「あの、時間が…」思わず言いかけると「間に合います」と私の言葉をシャットアウト。「どうぞ」と、いきなりファッション雑誌を渡された。そっと鏡をのぞく。おじさんの顔が心なし、引きつっているように見える。出来ない?まさか…。頭はカーラーが5個巻きついたサザエさん状態。今ここで止めるわけにはいかない。どうする?どうしようもない。一応プロの美容師なのだ。何とかするだろう。私は観念して雑誌を広げた。おじさんは巻いた髪に再びドライヤーをあてたり、カーラーを外してまたカットしたり、何事か作業を繰り返している。どのくらい時間が過ぎたのだろう。「出来ました!」つい雑誌に夢中になっていた私は、おじさんの大きな声で我に返った。慌てて鏡を見ると…。こんもりと高く盛り上がった頭頂部、横もふんわり大きく膨らみ、まるで大きなキャベツのようだ。小学校入学式の記念写真に写っていたン十年前の母の髪形を思い出した。しかも前髪は日本人形のごとく一直線。丸く膨らんだ顔がますます丸く見える。「しっかり固めてあります。どんなに雨に濡れようが、夜遅くなろうが大丈夫!」どうだ、と言わんばかりに、得意げなおじさん。呆然とする私…。不覚だった。雑誌など眺めずに見張っているべきだった。しかし、時すでに遅し。それどころか、リハーサルに遅刻しそうな時間だ。「ご成功をお祈りします!」おじさんの明るい声に送られて、私は美容院を飛び出した

タクシーに乗ったものの、雨のせいか道が混んでいる。のろのろ、のろのろ…。「急いで!」と叫ぶ私。「そりゃ無理だぜ、nena(ねえちゃん)」と無愛想な運転手。歌う本人がリハーサルにいないことなどありえない。冷や汗が流れた。やっとの思いでホールにたどり着き、駆け込んだ。「遅くなりました。ゴメンナサイ!」楽屋の入り口で待っていてくれたM先生ご夫妻とマリア、振り向いた三人の笑顔が消えた。目を大きく見開き口をあんぐり。言葉が出ない。しばし沈黙のあと、M先生が絞り出すような声で言った「メ、メグミ、いったい何をしてきたの…?」

(つづく)
  以上は、日西翻訳通訳研究塾のメールマガジン『塾maga2011年12月 合併号(No.134)』に掲載されたものです