Establecida en 2010

Escrito por Tomoko Ikeda del ITT

Sr. Japón y Hasekura san

Japón さんと支倉さん

〜 日本とスペイン400年の時と海を超えた出会い 〜

Fundado en 1995

スペイン語翻訳通訳

Instituto de Traducciones de Tokio

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ここは日西翻訳通訳研究塾ホームページ「支倉 と Japón san」のページです
     
 
 
 

「サムライたちがコリア・デル・リオを選んだ理由」
− Episodio XIII −


東北地方を思わせる町
初めてコリア・デル・リオを訪れたとき、なぜだか懐かしい気持ちになった
ゆったりと流れる川、田園風景、穏やかな空、やさしい人々
前にも来たことがあるような、見たことのあるような景色が目の前に広がる

そうだ、日本の東北地方に似ているんだ

だからかもしれない。400年前、サムライたちがこの地にとどまることを決心したのは
支倉常長率いる慶長遣欧使節は、スペイン入国時と帰国時の二度、コリア・デル・リオに滞在している。使節のメンバーのうち数名は日本へ帰らずこの町にとどまり、現地の女性と結婚し、やがてハポン姓が生まれたと考えられている。でも、なぜ使節が訪れたセビリアやマドリード、ローマのような大都市ではなく、この小さな町だったのだろうか。コリアの女性たちと情熱的な恋に落ちたから?

文化や言葉の壁なんて乗り越えられるくらい、大きな愛で結ばれていたのかもしれないし、もっと他に理由があったのかもしれないが、本当のことは分からない。でも、どんな理由にせよ、異国の地に住むことを後押ししたのは、“この町が自分たちの故郷である東北地方にどこか似ていたから”ということもあったのでは。コリア・デル・リオに実際に訪れてみて、私はそんなふうに思った

グアダルキビル川でつながる都市
常長一行は、なぜコリア・デル・リオを訪れたのだろう
彼らのスペインでの最初の目的地は、セビリアだったはずだ

当時セビリアは、地中海航路と大西洋航路の中継地であり、スペイン王国最大の商業都市として栄えていた
使節を派遣した伊達政宗は、セビリアの繁栄を知っていたからか、または使節派遣を企てた一人で、通訳兼案内人として同行したソテロ神父の出身地であるということもあってか、常長らにセビリア市長宛ての書状も託している
書状には、@セビリアと友好親善を図りたい、Aスペイン国王とローマ教皇のもとに使節を遣わせるので力添えを願いたい――と書かれていた
この内容から、政宗は商業都市として栄えていたセビリアを介して、通商交渉をよりスムーズに行おうとしていたことが分かる

政宗からの大切な書状を届けるという役目を果たすためにも、一行はすぐにでもセビリアに向かいたかったに違いない。でも、この都市に行きつくまでに、グアダルキビル川という大きな川でつながる2つの都市を経由する必要があった

まずは大西洋側からのスペインの玄関口サン・ルーカル・デ・バラメダという町。当時の外国船は、スペイン入国の際、サン・ルーカル・デ・バラメダ港から入港する決まりとなっていたため、一行はこの町に上陸した。そこからグアダルキビル川を上流し、いよいよセビリアへと向かうのだが、当時セビリアの税関はコリア・デル・リオにあり、一行を迎えにきた当局が、税関のあるコリアに下船してほしいと要望。一行はコリアに一週間ほど滞在し、セビリアに入るための礼服を揃えたり、入市するための準備をしたとされている

その後、セビリア滞在を経て、マドリードにてスペイン国王に、イタリアにてローマ法王に謁見し、日本へ帰国する際に再びコリアを訪れた。帰国船を待つためだ。今度の滞在は長く、1616年5月から日本へ帰国する1617年7月までの約1年間、セビリア郊外のコリア・デル・リオとロレトという町の二か所に分かれて滞在していたという
もうすでにこの時点で何人かはスペインへ残ることを決意しており、日本から同行してきたイグナシオ・ヘスース神父の出身地であり、ソテロの兄も住むコリアで、彼らの助けのもと日々過ごしていたサムライたちもいたようである

コリア・デル・リオに残る決意
コリアを選んだ理由。それは、単に世話になっていた人たちが住んでいるというだけでなく、日本人にとって住みやすい町だったからではないだろうか。コリア・デル・リオ(フェニキア語で魚がいる場所)という地名の通り、漁をする川船が行き交う漁業の町であり、また、町の裏手には大河の水を引いた水田が広がり、農業も盛んで、まるで日本の田園風景を思わせるこの町は、日本人にとって馴染みやすかったのかもしれない

コリア上陸時の町の人からの大歓迎ぶりもこの地に留まることになった理由の一つと考えられる。長期にわたる船旅をしてきた彼らにとって、町の人の大歓迎は疲れを癒し、感動を与えるものだったのではないか。遠い異国からやってきて、不安でいっぱいの中、現地の人々の温かい心に触れたとき、その感動は忘れがたいものだ。特に、コリアとセビリアは使節の旅の全工程の中で、最も歓迎された場所であったという

現在、このコリア・デル・リオには800人近くのハポン姓の人々が住んでおり、“ハポンさんの町”として知られている。近世に入ってから、スペインでは地方から大都市への人口流出が盛んになり、とくに土地を持たない小作農民や小土地所有者に著しく見られたというが、なぜかハポン姓を持つ人々は、ずっとコリアに住み続けている。しかもまとまった地域に住んでいるのだ。ハポン姓について書かれた「ヨーロッパに消えたサムライたち」(太田尚樹著)によると、コリアはスペインでも有数の農業地帯であり、大都市に新しい仕事を求めて移り住む必要がなかった。そしてこの事実は、彼らが昔からコリアで安定した生活を送っていたことを意味しているとある。また、もしハポン姓の人たちが使節の子孫であった場合には、彼らは当初から結束して生活していたことが伝統的に受け継がれ、それも土地離れしなかった理由の一つだとしている

とはいえ、大都市に移住しなくても生活が送れたという事実は、残った日本人がコリアの人々に受け入れられていたという証拠でもあると思う
純血を重んじる気風のあった16〜17世紀のスペインにおいて、400年前のサムライたちは、いったいどうやってコリアの人々に受け入れられ、生き抜いたのだろう