Establecida en 2010

Escrito por Tomoko Ikeda del ITT

Sr. Japón y Hasekura san

Japón さんと支倉さん

〜 日本とスペイン400年の時と海を超えた出会い 〜

Fundado en 1995

スペイン語翻訳通訳

Instituto de Traducciones de Tokio

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「受け入れられた日本人」
− Episodio XIV −


「勤勉」、「真面目」、「礼儀正しい」
世界が日本人に対して抱くイメージは、400年前も今もさほど変わらないようだ

Episodio13でも述べた通り、慶長遣欧使節のうち数名が帰国せず、コリア・デル・リオで生きていくことを決めた。しかし、16〜17世紀のスペインは純血を重んじる気風があった。そうした中、彼らはどうやって現地の人々に受け入れられ、生き抜いてきたのだろう

お金を持つか、手に職・技術を持つか―――。この地において日本人が生き抜く方法は、どちらかであったと言われている(「仙台郷土研究・復刊16巻2号」より「シンポジューム支倉常長を語る」より)。残った日本人は、使節そのものがスペインから幾度となく援助を受けなければ旅を続けるのが困難であったという事実からも分かるように、十分なお金は持っていなかったはずだ。では技術の面ではどうか。彼らの技術といえば「稲作」である。農業が盛んなコリアにおいて、彼らは稲作や農業に従事することができたため、現地の人々に受け入れられ、共に生活していくことができたと考えられる
しかし、これだけが理由ではないと思う。「勤勉」で「真面目」で「礼儀正しい」、そんな日本人の国民性が評価されたからこそ、生きていけたのではないか

慶長遣欧使節は滞在中、さまざまな場所で称賛を得ていたとの記録が残っている
まずセビリアでは、使節の大使・支倉常長は「はなはだ知恵のある人」と評価され、最大のもてなしをされたという。彼の宿舎にあてられたアルカサルは、豪華な宮殿だったようだ(「支倉六右衛門と西欧使節」、田中英道著より)
次に、スペイン国王、ローマ教皇の前に出ても、常長は政宗から命じられた交渉条件を堂々と、しかもメモを持たず、東北弁で訴えていった。迫力ある話し方、君命を全うしようとする誠実で真面目な人柄に、国王や法王のみならず、並みいる高位高官たちが大絶賛したという。その称賛ぶりは、支倉常長と使節の数人の日本人が「ローマ市公民権証書」を与えられたことをみてもあきらかだ

この証書は、1615年11月23日にローマ市庁舎にて授与され、常長とともに以下の日本人が市民権を与えられた。いずれも各地の有力な商人で、キリスト教信者であった
   ■ドン・フランシスコ・野間半兵衛(尾張出身)
   ■パウロ・カミロ・シピオ・小寺外記(奥州出身)
   ■ドン・トマス・滝野嘉兵衛(山城の国首府京都出身)
   ■ドン・ペドロ・伊丹宗味(摂津の国出身)
この4人について、イタリア側の資料には、「立ち振る舞いに気品があった」と書かれていると言う

私は、宮城県にある仙台市博物館で、常長宛ての「ローマ市公民権証書」を実際に見たのだが、白い洋皮紙にラテン語が金文字で書かれており、常長とローマ市それぞれの紋章があしらわれていた。想像していたよりも立派な証書で驚いた
ちなみに同博物館には、ユネスコ記憶遺産・国宝の支倉常長の肖像画や、常長が日本に持ち帰った資料(慶長遣欧使節関係資料)が展示されているので、興味のある方はぜひ訪れてみてはどうだろう

現代のコリア・デル・リオにおいても、日本人への評価は高い
コリア市役所広報課長のマヌエル・ルイス・ハポン氏は、「郷土史家ビルヒニオ・ハポンのいとこにあたるラ・プエブラ・デル・リオの町長フリオ・アルバレス・ハポン氏や、アンダルシア自治政府の文相フアン・マヌエル・スアレス・ハポン氏をはじめ、この町やセビリアで名士となっている人も多くいます。ハポン姓の人はもともと高学歴が多く、教育熱心な日本人の伝統がここでも生きていたのです」と話しているという(「ヨーロッパに消えたサムライたち」、太田尚樹著より、役職はいずれも本に記載された当時)。また、コリアで漁師をしているマヌエル・ルイス・ハポン・ビスコチョ氏は、「私の家族は昔から6時に起きて、働きだすのさ。仲間の中でも、こんなに早起きなのは珍しいんだよ。働き者の日本人から受け継いできた最良の資質だね」と述べている(同)
彼らの証言が単なる偶然か、本当に資質を受け継いでいるのかは定かではないが、こういった資質を日本人の持つ「勤勉さ」や「真面目さ」として認めていることが分かる

その評価は、おそらく400年前から変わらない。コリアに残った日本人の中には、東北出身者もいたであろうから、(東北地方と同様に)農業が盛んなこの地で稲作をはじめ、生活を営んだ。日本人の勤勉さ、真面目さ、そして君命を全うしようとしていたことからも分かる「誠実さ」は、その後もコリアで生活していくことを可能にし、今日までいたったのではないかと思う
現在、コリアにおいて「支倉常長」はおそらく最も身近な日本人だろう。市のパンフレットやホームページにも堂々とした常長の姿を見ることができる。日本から来たサムライたちは、しっかりとこの地に根を下ろし、生き続けているのだ。その理由の一つが、日本人の国民性が受け入れられたからだとしたら、とても誇らしい気持ちになる