最古のハポン姓の記録は1647年の徴兵名簿だった(Episodio15参照)
では、いったい誰が、なぜハポン姓を名乗り始めたのだろうか?
苗字を持たない日本人が名乗りだした、ギリシャ人画家「エル・グレコ」のように出身国があだ名としてついたのがはじまり・・・・など、考えられるケースはあるが実際のところは分からない
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ハポン姓が生まれた謎を解くために、まずは時代的背景を整理しておこうと思う
@ 16、17世紀のスペインでは、出身地の村、町、国などを苗字とすることが多かった
A ギリシャ人画家「エル・グレコ(El Greco)
」の没年は、使節がスペインへ到着した1614年と同じである
B この時代に東洋人がやってくることは珍しい
これらを踏まえたうえで、以下の3つのケースについて考えてみたい
ケース1. 苗字のない日本人が名乗りだした
コリア・デル・リオに残った日本人の中で、苗字を持っていなかったものがいて、彼らがハポンと名乗りだした可能性はないだろうか。彼らが現地の女性と結婚し、子供が生まれたとする。スペインでは生まれた子供に父親と母親の姓をつける慣習があり、それはその子が嫡出子であることの証になるという。そうすると、苗字を持たない日本人の子供の場合、本来は嫡出子であるにも関わらず、法的婚姻をした夫婦間に生まれた子とは見なされなくなってしまう。そこで、彼らは自分たちの祖国であるハポンを名乗るようになったことが考えられる
ケース2. ハポンというあだ名がやがて姓になった
自らハポンと名乗りだしたのではなく、現地の人々から「ハポン!ハポン!」と呼ばれているうちに、それが次第に姓として定着していったというケースも考えられる。中丸明氏著の「支倉常長異聞」によると、コリアの町役場職員であるマヌエル・ルイス・ハポン氏の証言に、「何らかの事情で使節と別れて、セビリアの近辺に残ることになった私たちの祖先が、最初は“エル・ハポネス”(El japonés、あの日本人)とか、“ロス・ハポネセス”(los japoneses、あの日本人たち)とか呼ばれていたのが、いつの間にか“ハポン”と出身国名を持って呼ばれるようになったのではないか」とある
そういえば、大学生の時メキシコに短期留学をしたのだが、語学学校の先生はわたしの名前を覚えられないとかで、よく「ハポン!!」と呼んでいた。そう考えると、このケースはけっこう可能性が高いのでは?と思ってしまう。生涯メキシコで暮らすことになったとしたら、わたしもハポン姓を名乗りだしていたのだろうか・・・
ちなみに、ギリシャからやってきてトレドで生涯を送った画家の「エル・グレコ」(El Greco)は、スペインにやってくる前にイタリアで過ごしていたため、イタリア語でギリシャ人を意味する「グレコ」に、スペイン語の男性定冠詞「エル」(El)がついた「エル・グレコ」という通称名で呼ばれていた
エル・グレコはあくまでも通称名だし、ハポンという“スペイン語”がそのまま姓となったケースとはまた別だが、グレコが没した1614年は、慶長遣欧使節がスペインに到着した年と同じだったことからも、当時、異国の人を出身国名で呼んでいた可能性はあったのかもしれないと考えられる
ケース3. 日本にゆかりのあるものが名乗り始めた
日本人以外が名乗っていた可能性も否定できない。使節の日本語通訳兼秘書役を務め、ローマからの帰路マドリード郊外で病死した、フアン・マルティネス=モンターニョは、純粋なメキシコ人でありながら、母方の姓であるモンターニョの代わりにハポン姓を名乗っていたというのだ
その証拠に、「死者台帳」に「Juan martínes Japón por pobre」(貧困のために亡くなったフアン・マルティネス・ハポン)との記録が残っている(写真一番上) |
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【スペインの「死者台帳」、(大泉光一著「支倉常長」より転載)】 |
この「死者台帳」の中には、本名であるモンターニョの名前も記載されているという。彼は日本人と同じくらい日本語が堪能だったので、「ハポン」と呼ばれていたのを、愛称としてそのまま記述していたのではないかとの説もある(大泉光一著「支倉常長」)
日本にゆかりのある人たちが、ハポンという愛称で呼ばれ、いつしかそれが苗字になっていったとも考えられるかもしれない
以上3つのケースを挙げてみたが、わたしはこれらに加え「日本」という国に対する強烈な印象・想いが加わったことで、400年経った今でもその姓は残り、800人近くの「ハポンさん」が存在するのではないかと考えている
では、当時のスペインにおいて「日本」のイメージとはどんなものだったのだろうか?