Establecida en 2010

Escrito por Tomoko Ikeda del ITT

Sr. Japón y Hasekura san

Japón さんと支倉さん

〜 日本とスペイン400年の時と海を超えた出会い 〜

Fundado en 1995

スペイン語翻訳通訳

Instituto de Traducciones de Tokio

Sonríe y mejora tu idioma.

ここは日西翻訳通訳研究塾ホームページ「支倉 と Japón san」のページです
     
 
 

Episodio17 「黄金の国ジパングはJapón?」
− Episodio XVII −


Japónという苗字には、日本という国としての意味だけでなく、何らかの強烈なイメージも含まれているのではないか。それがJapón姓が生まれ、今日まで続いている理由の一つなのではといつしか考えるようになった

では、400年前の日本のイメージとはいったいどんなだろう?

1.コロンブスの「東方見聞録」と「黄金郷伝説」
まず一番に思い浮かぶのは、「黄金の国ジパング」だ
「東の果て、太陽の昇るところに、金を産する金島や銀を産する銀島が存在する」という「黄金郷伝説」が、紀元前一世紀頃に書かれたヨーロッパの地理書にすでに登場していた。一説では、ヨーロッパ人がこの伝説と日本を結び付けて考えるようになったのは、マルコ・ポーロが著書「東方見聞録」の中で日本を“ジパング”とし、次のように紹介したからではと言われている

「この島(ジパング)は、東方の大海の中、マンジ(シナ)の海岸から1500マイルの位置にあって、非常に大きい。そこには莫大な金がある。国王は金を島外に持ち出すことを禁じており、そのため、商人はほとんどそこへ行かず、他所の船が行くことも極めてまれである。ちょうど、私たちの教会が鉛で葺(ふ)かれているように、純金で屋根を葺いた大宮殿があり、国王の所有になっている。宮殿の窓は金で装飾されており、広間やたくさんの部屋の屋根には金の板が敷かれ、その厚さは指2本ほどである」

マルコ・ポーロは当時、金や砂金の輸出国として知られていた日本に関する情報を得たことから、このように誇張した記事を書いたのではと考えられている
この東方見聞録が後世に及ぼした影響は大きく、日本に伝説上の黄金郷のイメージを与えた

新大陸発見で知られるコロンブスもまた、「東方見聞録」のラテン語版によってジパングに関する知識を得たという。「東方見聞録」がヨーロッパの中世から大航海時代にいたるまで、地理学者、地図製作者、商人、航海者たちに幅広い職業人に利用されたことからも、同書は単なる旅行記ではなく、東アジアの文化や社会史、歴史、地理などを記した総合的な記述であったといえそうだ

スペインではコロンブス以降も、ジパング探検に執念を燃やし続け、16世紀半ばまでにスペイン国王は6回の東洋探検を企てていたが、そのうちの2回はジパング探検が航海目標に挙がっている。この事実からも、スペイン人の日本へ対する黄金の島というイメージやそこへの執着が伺える

2. ジパング=日本
1543年、3人のポルトガル人が種子島に漂着したのをきっかけに、ポルトガル商人や宣教師が日本を訪れるようになった。しだいに日本の状況が明らかになり、1550年代には「東方見聞録」のジパングが、ポルトガル人によって発見された“ジャポン”であるということが分かるようになった
ジパングとジャポンが同一視されていたことが分かる資料がある。アントニオ・ガルヴァンが記した地理書「諸国発見記」だ。これには、「数日して、東方(北緯)32度に一つの島を見た。これはジャポンエスといわれ、古書が、その財宝について述べているジパングであると思われる。この諸島には、金、多量の銀、他の財宝が存在する」と記されている。また、ゲラルドゥス・メルカトルという人物は、1569年に出版した「世界地図」の日本の部分に「昔の金島で、ヴェネツィア人マルコ・ポーロによってジパングと名付けられた日本」と注釈をつけている。これらによって、ヨーロッパでもジパングが日本であると知れ渡るようになったのだ

3. ビベロとビスカイーノの金銀探検
「慶長遣欧使節」を派遣する最初のきっかけをつくった、ロドリーゴ・デ・ビベロとビスカイーノもまた、黄金郷の存在を信じ、金銀探検に力を入れた人物だ。ビベロは1609年に日本へ漂着してから翌年8月までの11か月間日本に滞在し、自身の体験をもとに「日本見聞記」を記した。そしてビスカイーノは、メキシコに帰国したビベロに命じられ、日本の東方に位置すると言われる金銀探検を行った。しかし結局見つけることはできず、メキシコへ帰国。その時にビスカイーノを送った船が、慶長遣欧使節の「サンフアン・バウティスタ号」だった。支倉常長ら使節一行が航海に出たのは、まさに「黄金郷伝説」が注目されていた真っ只中だったのだ

以上のことから、当時のスペインでは、日本に対して「金銀の島」というイメージや、はるか東にある黄金郷への憧れを抱いていたのではないかと考えられる
さらに、実際に使節の一行と交流することで、「サムライ」、「日本人の勤勉さ」、「礼儀正しさ」などの印象が加わり、”Japón”という国の強烈なイメージが形成され、苗字としてしっかりと残り伝わっていったのではないだろうか

<参考文献>
・「大航海時代の日本 黄金の国を求めて」より「金銀島を求めて」岸野久著
・「大航海時代の日本C」東方見聞録
・「大航海時代の日本C」日本見聞記