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Hola Barccelona
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スペイン歌曲の歌い手
「谷 めぐみ」の歌修行 "Hola! バルセロナ"
- その16 -
¡Hola! バルセロナ(16)
「¡Vamos a trabajar!(さぁ、始めよう)!」ピアノの前に座ったM先生は、スーッと空気でも撫でるように弾き出した。指とピアノか、ピアノと指か…。鍵盤と一体化した手の動きが美しい。こんな風に弾けるなんて…。私はすっかり見とれてしまった。一曲目にE.グラナドスの歌曲を歌う。M先生「Bien」。次にまたグラナドス、「Bien」。四、五曲を続けて歌った。「Bien。今日はここまで。レッスンは来週火曜日から」あっさりしたものである。どこを注意するわけでもない。どれもこれもBien(良い)?そんなはずがない。もしかすると先生は、あまりの下手さにレッスンする気も起きなかったのだろうか?私の歌は箸にも棒にもかからないほどひどいのだろうか?心の中を次々と不安がよぎる。何か言ってほしい。でも、M先生はもうさっさとピアノのふたを閉じている…。「Hasta la próxima semana(また来週)」ご家族に見送られ、私はお宅をあとにした。本当に怖くなってきた
翌週火曜日、バルセロナ市立高等音楽院での初レッスンである。ここは日本の大学とはまったく様子が違う。子どもから大人まで様々な年齢の生徒が校内を自由に行き来し、カフェテリアでは若い男女がキャアキャア、お喋りに余念がない。カタルーニャを代表する作曲家Eduard Toldráの名を冠したホールもある。3階にはズラリとレッスン室が並んでいた。ピアノ、声楽、ヴァイオリン…。どの部屋でも先生と生徒がレッスン中。ふと大学時代を思い出す。たどり着いた一番奥の部屋にM先生がいた。女子学生と挨拶を交わしている。次は私の番だ。私の顔を見た途端、先生は深いため息をつくのではなかろうか…
先日と同じように、M先生はスーッとピアノを弾き出した。弾くことと弾かないことの境目がない、とでもいうのだろうか。不思議な自然体だった。とにかく夢中で歌った。この日は徹底して発音を直された。日本人の発音でよく言われることだが、RとLの区別が明確に出来ていない。特にLがまずい。油断すると舌が行方不明のままLを通過してしまう。分かっていても、気をつけていても、ついR風に発音してしまう。さらに、母音のuとeがよろしくない。uはもっと深く、eはもっと口角を引いて明瞭に、という感じである。RとL、それにuについてはドイツリートでも学んだことだったが、eの指摘は初めてだった。M先生は決して聴き逃さなかった。少しでも曖昧な発音になると「No」と必ずやり直させる。ついうっかり、の時でも容赦なく「No」そして「Otra vez(もう一度)」である。発音のことばかり考えながら必死で楽譜を追う。歌というより、お口の体操をしている気分だった
「Bien。今日はここまで」アッという間に終了時間がきた。もっと歌いたかった。初めて本気でスペイン語を見つめて歌った気がした。アルファベットのひとつひとつがくっきりと浮き立って見える。外国語で歌うとはこういうことなのだ、今さらながらそんな感慨が湧いた。「ほら。お客様がいっぱいだ」M先生の言葉に振り向くと、数人の子ども達がドアに頬をくっつけ、こちらの様子をうかがっている。私と目が合うと、皆一斉に大歓声。パチパチと拍手をしてくれた
(つづく)
以上は、日西翻訳研究塾のメールマガジン『塾maga2009年12月号(No.110)』に掲載されたものです |
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