谷 めぐみ の 部 屋
 


 

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Hola Barccelona
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スペイン歌曲の歌い手

「谷 めぐみ」の歌修行 "Hola! バルセロナ" - その17 -

¡Hola! バルセロナ(17)
毎日9時から12時までスペイン語のクラスに通い、買い物をしながら帰宅、午後は歌の練習とレッスン、そしてスペイン語の予習・復習。やっと留学生らしい生活が始まった
毎日歌うこと、これを危惧していた。歌の練習は、周囲にとってはただの騒音である。練習であるから、当然、同じ曲を何度も歌う。実家の母でさえ「たまには違う曲を歌ってちょうだい」などと言っていた。歌だけではない。大学時代、私の上階に住んでいた作曲科の先生は部屋に大きなグランドピアノを持ち込んでいた。いかに防音の部屋とはいえ、彼がショパンの「革命」などを弾き出すと音はつつぬけ、天井が揺れた。負けじとこちらも歌うか、弾くか、ワーグナーの楽劇を大音量で鳴らすか…。音楽の練習とは、それほどに“うるさく迷惑な”ものなのだ
入居前に不動産屋に確かめたところ、このアパルタメントは外国人向けなので住人がしょっちゅう入れ替わる。しかも皆、昼間は仕事に出ているから何の問題もない、との返事だった。確かに昼間はシーンと静まり返っている。歌の練習を始めて数日が過ぎても、誰も何も言って来ない。一度だけエレベーターで会ったご婦人に「歌っているのは貴女ですか?」と話しかけられたことがある。「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と慌てる私に「迷惑?とんでもない。素敵ね」と言ってくれた
ある土曜日の真夜中、グッスリ眠っていた私は、ガンガン鳴り響くロックにたたき起こされた。隣部屋の住人がパーティーを開いているらしい。しかもその時初めて気づいたのだが、私の寝室の壁の向こう側が隣の部屋のトイレなのだ。安普請なのだろう。誰かがトイレを使うたびに、レバーを動かす音と水を流す音、そしてご丁寧にトイレのドアを閉める音まで聞こえてくる。ガッタン・ジャー・バタン、ガッタン・ジャー・バタンの繰り返し。眠れない。「何時だと思っているの!」怒鳴り込みたい衝動にかられた。しかしこちらにも弱みがある。「昼間のあんたの歌の方がよほどうるさい!」と逆襲されるかもしれない。一度クレームが出たら歌えなくなる。耐えるしかないのか。ガッタン・ジャー・バタン、ガッタン・ジャー・バタン…。悪夢のような土曜日の夜は、その後もしばしば訪れた
ある夜は、異様な爆発音で目が覚めた。パンパン!バンバン!ものすごい勢いで爆竹が鳴っている。キャー!キャー!プップー!ピッピー!飛び交う奇声、車のクラクション…。騒然とした気配。ただごとではない。ハッとした。「これがクーデターというものなのだろうか?朝には世の中が一変している、そんな歴史的瞬間に自分は立ち会っているのだろうか?」昔、教科書で習ったいくつかの事件が頭をよぎる。恐怖と緊張でなかなか眠れなかった。夜が明けた頃、外はやっと静かになった。こわごわカーテンを開けてみる。別段変った様子はない。そのうちに向かいのパン屋が店を開けた。仕事に出かける人もいる。窓の下ではいつもの朝の営みが始まっていた。スペイン語のクラスも普通に始まった。ミゲルの真面目な講義とアントニオの軽口、宿題の作文の発表と動詞の活用の復習…いつもと同じ。誰も何も言わない。授業が終わろうとする時、ついに耐えきれなくなった私は叫んだ「昨夜、何があったの?」皆、ポカンとしている。やがてミゲルが必死に笑いを堪えて言った「昨夜の事件を知らないのは、バルセロナ中でメグミだけだよ」「?…」当時はサッカーにまったく興味がなかった私。実はアパルタメントはカンプ・ノウ(サッカー競技場)のすぐ近くだった。昨夜はバルセロナのチームがマドリードのチームに勝ったそうな。興奮したサポーター達が勝利の雄叫びを上げていたのだ
どうやら“うるさい”の規準が違うらしい。耳をつんざく真夜中のロック、天地を揺るがす爆竹と奇声…。これらに較べれば、私の歌など“蚊の鳴くようなもの”だ。納得し、開き直り、私は遠慮なく毎日歌うことにした

(つづく)
  以上は、日西翻訳研究塾のメールマガジン『塾maga2010年01月号(No.111)』に掲載されたものです