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Hola Barccelona
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スペイン歌曲の歌い手
「谷 めぐみ」の歌修行 "Hola! バルセロナ"
- その34 -
¡Hola! バルセロナ(34)
日本民謡集出版に向けての作業は順調だった。M先生はそれまでに何度か来日の経験があり、東洋、とりわけ日本に対して深い尊敬の念を抱いていた。歌詞の西訳を進めながら、日本の風土、習慣、日本人のものの感じ方について先生と語り合うのは興味深いことだった。出版の打合せ等でM先生の自宅へ行く機会が増えると、ご家族はまるで私を親戚の娘のように親しく迎え入れてくれた。お母様のマリアはいつも髪を後ろでまとめ、小さなメガネをかけている。私はふと子供の頃に大好きだった「赤毛のアン」のマリラを思い出した。マリラは厳しくコワいおばさまだったが、マリアは違う。お料理上手の優しいおばあちゃまだった。読書好きで、よくベランダの籐椅子に揺られながら本を広げていた。「マリアは本当に読書が好きですね」と私が言うと、「ええ。でもね、どんな小説より面白いのは人間ひとりひとりの人生よ」と、ニッコリ微笑む。対照的に、父上は、それはそれは無口な方だった。私は挨拶をする以外に、ほとんど話をしたことがなかった。ある時、何かの事情で父上と私が二人で留守番?をするハメになった。皆が出かけ、シーンと静まり返った室内。何か話さねば…。困った…。「メグミ」父上がおもむろに話しかけてきた。「ハイ」緊張が走る。「私は日本が好きだ。なぜなら、これまでに一度もスペインと戦争をしたことがないからだ。日本が好きだから日本人も好きだ。だからメグミはいつでも安心してここへ来ればいい。ここはお前のスペインの家だ」ひと言ひと言押し出すように語る父上の言葉に胸がジーンとした。二人っきりの留守番に当惑していたのは私だけではなかったのだ。「この日本人娘と何を話そう…」父上も一生懸命に考えてくれていたのだ。「ワシはメグミと楽しく過ごしたぞ」ほどなく帰宅したM先生の奥様に、どこか得意げに報告している父上の様子がありがたく、ちょっぴり微笑ましかった
こうしてスペイン語を話す機会がどんどん増えた。街中での会話を聞いて「なるほど!こういう時にはこういう風に表現するのか!」と、何気ない言い回しを覚えることもあった。愉快だったのは、「外人」の話すスペイン語を聞いて、その人の母国が分かるようになったことだ。この語尾の感じはポルトガル人、この母音の曖昧さはアメリカ人、この独特のイントネーションはイタリア人、この息の吐き方はドイツ人…etc。そんなある日、ひと息入れようと英語の雑誌を広げたときのことである。アレ?変だ。頭が反応しない。目は文字を読んでいるのに内容が入ってこない。どこか遠くの外国語、ただの暗号のようにさえ感じられる。そのうちに、あろうことか、英語をスペイン語に訳して理解しようとしている自分に気づいた。これは一体どういうことだ?翌日のレッスンの折、たまたまM先生が何かを英語で言った。ポカンとしている私に先生は怪訝な顔をする。「今のことをスペイン語に訳すと…」私がおずおずと言いかけると、先生はビックリ仰天!そりゃそうだ。つい数ヶ月前まで、我々は英語で意思の疎通を図っていたのだから。あまりにも急激な勢いでスペイン語に没頭し過ぎて、私の英語は頭の中からはじき出されてしまったのか?謎だ…。「メグミの英語はどこへ行った?」M先生は時々、いかにも可笑しそうに私をからかった
エレナ事件でショックを受けている私を元気づけようと、三樹子さんがコンサートに連れ出してくれた。リセウ劇場では郷土のスター・ホセ・カレラスのオペラ、カタルーニャ音楽堂(パラウ)ではウラジミール・アシュケナージのピアノリサイタル。どちらもバルセロナを代表する建築、世界一流の演奏家によるコンサートで素晴らしかった。でも私の心には、まだどこかポッカリと穴が空いていた。しばらくして、やっとエレナから手紙が届いた。国に無事帰り着き、親元で静養しているとのこと。「落ち着いたら子どもに絵を教えようと思う」と書いてある。よかった。とにかく、よかったのだ
リサイタルが近づいていた。メソメソしている場合ではない!
(つづく)
以上は、日西翻訳通訳研究塾のメールマガジン『塾maga2011年10月
合併号(No.132)』に掲載されたものです |
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