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Hola Barccelona
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スペイン歌曲の歌い手
「谷 めぐみ」の歌修行 "Hola! バルセロナ"
- その38 -
¡Hola! バルセロナ(38)
よく晴れた4月の午後、M先生、M先生の奥様と一緒にモンポウのお宅へ伺った。椅子にゆったり座ったフェデリコ・モンポウと奥様のカルメン・ブラボー女史が笑顔で迎えてくださる。少々緊張気味の私。ご挨拶の後、「貴女がメグミなの?」などと質問が始まったところで、呼び鈴が鳴った。「ごめんなさいね。急に取材が入ったのよ」とブラボー女史。勢いよく部屋に飛び込んで来たのは、アメリカ人女性ジャーナリストだ。妙に平べったく?明るい。挨拶もそこそこに、昔のハリウッド映画の女優のごとく目を大きく見開き、派手な身振りを交えて己が何者かを喋りはじめた。しかも英語だ。部屋の空気が一変した。子どもの頃は「外人」といえば皆同じに見えていたが、こうしてみると、いかに雰囲気の違うことか。自己紹介がひと段落したところで、アメリカ嬢は初めて私の方を見た。「彼女は日本から来たのよ」ブラボー女史が言い終わらないうちに「Wonderful!」と、また大袈裟なアクション付きで感動して見せる。変な女だ。「フェデリコの曲をメグミが歌うから、貴女もお聴きなさい」「歌う?彼女が?」怪訝な顔をしている。ブラボー女史がM先生に目で合図をした。「では」M先生はいつものように淡々と弾き始めた。「牧歌」「川面に雨が降る」「雪」など、バルセロナへ来て学んだ曲を歌う。モンポウ作品の透明な音、内なる静寂…。アメリカ嬢はさっきよりもっと大きく目を見開き、こちらをジーっと見つめている。「Muy bien」そして「Más(もっと)」とモンポウが言ったとき、彼女の目がわずかに歪んだ。「『君の上にはただ花ばかり』を歌いなさい」とM先生が言う。あの歌を、あの憧れの歌を、モンポウ本人の前で歌える!私は緊張などすっかり忘れ、幸せだった。ここはバルセロナ、美しく豊かな音楽、ふんわりと優しい時間…。と、そこで、もう我慢できない!とばかりに、アメリカ嬢がいきなりモンポウに話しかけた。ワーワー言っている中身はともかく「何故こんな日本の小娘が私より歓迎されているの?」とお腹の中で怒っているのが分かる。「これだから困るのよねぇ」ブラボー女史が小さくタメ息をついた。ほどなくM先生ご夫妻と私はお宅を後にした。モンポウご夫妻からは過分なお褒めの言葉をいただいた。そして『夢のたたかい』の楽譜にはモンポウ自筆のメッセージとサイン!夢のたたかい、ならぬ、まさに夢の実現だった
その数週間後、M先生ご夫妻は私をナタリア・グラナドスのお宅へも連れて行ってくれた。スペインを代表する作曲家のひとり、エンリケ・グラナドスの娘さんである。白髪の美しい上品なナタリアとお医者様のご主人がそれはそれは温かく迎えてくれた。グラナドスの遺品が展示された部屋には、屏風、蒔絵、絵画など“東洋”のものがズラリと並んでいる。「父は日本に憧れていました」ナタリアが目を潤ませた。エンリケ・グラナドスの最期は哀しい。第一次世界大戦中の1916年1月、自作のオペラ『ゴィエスカス』の世界初演に立ち会うため、グラナドス夫妻はニューヨークへ渡った。公演は大成功。しかしその帰路、二人が乗った船は英仏海峡でドイツ潜航艇による無差別攻撃を受け、沈没。グラナドス本人はいったん救助されたが、波間でもがく妻を救うために再び海に飛び込んだ、と伝えられている。バルセロナで待ちわびる六人の子どもたちのもとに両親は帰ってこなかった。末娘のちいさなナタリアは、この知らせをどんな思いで聞いたのだろう…。グラナドスの代表的歌曲集『Tonadillas』『Amatorias』の中から「悲しみにくれるマハ」「心よ、お泣き」など、大好きな作品を歌う。「パパの曲を日本人のniñaが歌ってくれるなんて…」ナタリアは何度もこの言葉を繰り返し、私を抱きしめた。隣の部屋には心づくしのコーヒーとお菓子が用意されていた。ご夫妻に問われるままに、日本のこと、歌のこと、バルセロナでの生活のこと等々を話す。ナタリアの童女のような瞳が印象的だった。帰り際、「もう二度と会えないかもしれないけれど、メグミのことは忘れない。これは天国のパパも同じ気持ちだと思う。来てくれてありがとう」ナタリアはそう言って、私を強く抱きしめた。「私も決して忘れません。本当にありがとうございました」ふいに涙があふれた。今日初めて会ったとは思えない愛しさだった
(つづく)
以上は、日西翻訳通訳研究塾のメールマガジン『塾maga2012年02月
(No.136)』に掲載されたものです |
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