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Hola Barccelona
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スペイン歌曲の歌い手
「谷 めぐみ」の歌修行 "Hola! バルセロナ"
- その39 -
¡Hola! バルセロナ(39)
五月に入り、帰国が現実味を帯びてきた。こちらへ来るときはKLM機のビジネスクラスという優雅な旅だったが、帰国は最安値の某国某航空会社に決めた。東京へは週二便が飛んでいたが、途中乗りかえで一泊する便はすこぶる評判が悪かった。東京に着いた時に誰かが消えていた、なんてことが起きるという…。「メグミさん、お願いだから一泊しない方の便にしてね」と、楽天家の三樹子さんまでが真顔で言うので、私は4時間そこそこで乗り換えてしまう便を予約した。「まぁ!よくもあの飛行機に乗る気になるわねぇ。夜寝る時は雑魚寝、食事もまずいし、今までに何人も行方不明者が出ているのよ。あなた、知らないから乗る気になるのよ。何が起きても構わないっていうのならいいけれど、それだけの覚悟はあるの?」日本食料品店のおばさんはワイワイ騒いで私にお説教した。が、背に腹は代えられず、仕方がない。船便で出す荷物の準備も始めた。元々スーツケースひとつでやって来たのだから身軽なものだ。しかし膨大に増えたものがある。楽譜だ。日常茶飯事とまではいかないまでも、海を越えた荷物が消えてしまうのはよくあることだ。私にすれば、某国の飛行機よりよほど恐ろしかった。楽譜はかけがえのない財産だ。出来ることなら、すべてを手荷物にして肌身離さず抱えて帰りたかった。しかしそんな訳にもいかない。これも仕方がないので、私は大切な楽譜の、その中でも特に特に大切なものを選び出してスーツケースに詰め、そのほかの楽譜を祈るような気持ちで日本に発送した。Ojalá!である。どうぞどうぞすべてが無事に日本に届きますように!
初夏を思わせる明るい陽気が続いていた。朝起きて、少々日当たりは悪いけれど大きな窓を開け、まずリビングに風を通す。アパルタメントの向かいのパン屋でセニョーラたちに交じってuno de cuartoのパンを買って朝食。ひとり暮らしには誠に贅沢な広々とした部屋で掃除、洗濯等々、家事をするのも楽しい。市場で買い物をして、ポルテロのおじさんと軽口をたたき、午後は歌の練習そしてレッスン。日曜日の午前中はカタルーニャ美術館に出かけた。どこにどの絵があるかをすべて覚えてしまったが、それでも何時間いても退屈しなかった。夕方にはよくバリオ・ゴティコを歩き回った。カテドラルの裏、ピカソ美術館のあたり、細い道を抜けてランブラスでコルタードを一杯!くたびれたら地下鉄に乗るもよし、元気ならアパルタメントまで歩くのもよし…。すっかり馴染んだこの穏やかで幸せな生活がもうすぐ終わろうとしていた
『日本民謡集』は6月初めに完成する予定だった。スペイン語、カタルーニャ語、英語による歌詞訳と日本語の読み方の手引きが付いた立派なものだ。鮮やかなオレンジ色の表紙に「日本民謡集〜歌とピアノのために」と父の筆字が躍っている。なにしろ日本人は私ひとりである。何度も校正原稿をチェックし、M先生と印刷屋へ出かけて日本語部分に間違いがないかを確認した。いつのまにか、全員が私の「Bien(OKです)」を待って次の作業に進む、という流れが出来上がっていた。なんと責任重大なことよ!…しかしこれは後年感じたことで、当時の私はそんな重責感とは無縁だった。作業が自分の性格に合っていたこともあるが、何よりもバルセロナの街で歌い、学び、師匠を手伝い、日々忙しく暮らしていることが幸せだった。自分でも不思議なほど“Barcelona”が好きだった
ある日M先生のお宅に伺うと、先生と奥様、母上のマリア、そして、いつもは書斎でひとり本を読んでいる父上までが揃って私を待ち構えていた。何か様子が違う。M先生が神妙な面持ちで言った「メグミ、大変なことになった」エッ?今頃になって何かとんでもない間違いが見つかったのだろうか?印刷が出来なくなったのだろうか?「いや、それは心配ない。楽譜はもうすぐ出来上がる。出版記念コンサートのことだ。このコンサートは、私個人ではなく市の主催で開かれることになった。会場はSala de Cienだ」バルセロナ市が主催する?Sala de Cien?Sala de Cienって、あのガイドブックに載っている有名なSala de Cien(百人議会の間)…?
(つづく)
以上は、日西翻訳通訳研究塾のメールマガジン『塾maga2012年03月
(No.137)』に掲載されたものです |
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