===========================================
Hola Barccelona
===========================================
スペイン歌曲の歌い手
「谷 めぐみ」の歌修行 "Hola! バルセロナ"
- その41 -
¡Hola! バルセロナ(41)
「動いちゃダメよ」念を押して、奥様は慣れた手つきで私の髪を切り始めた。器用なものだ。聞けば、ご家族みんなの髪をいつもカットしているとのこと。「この頬っぺたの輪郭を生かさなきゃ」「前髪がほんの少し額にかかるようにしましょう」などと、楽しげに話しながらチョキチョキ…。「どんな具合?」M先生と母上がのぞきに来る。「ほら、いい感じでしょう?」「この辺をもう少し切ったらどうかな?」「それにしても黒い髪だね。日本人は海草を食べるからって聞いたことがあるけど、メグミも海草が好き?」三人とも何だかはしゃいでいる。当の私はといえば、まず長いケープをすっぽり被らされて身動きが出来ない。話に相槌を打とうとつい振り向こうものなら、「No!」と奥様に叱られる。しかもベランダには鏡がないので自分の髪がどうなっているのか分からない。美容院というより床屋さんの椅子に座らされた小学生の風情であろう我が身を想像しながら、ニコニコ笑っているしか仕方がなかった。「Ya está!」小一時間もしたところで奥様の威勢のいい声が響いた。「日本のmuñecaみたい!うまく出来たわ!」得意げな奥様。「よく似合うよ」と母上。奥様が差し出した手鏡を見ると、丸みを帯びたおかっぱ風の仕上がりだ。そうか、こんな“普通”の髪型でいいのか…。日本では本番の日は必ず美容院に行っていたけれど…。ふとM先生のレッスン室の壁に飾られたヴィクトリア・デ・ロス・アンへレスの写真を思い出す。たしかに、彼女はどんな演奏会でもごく自然な髪型だ。スペインではそれが習慣なのだろうか?でも、モンセラ・カバリエやテレサ・ベルガンサは、いつだって「たった今、美容院から出てきました」みたいな頭をしている。単なる好みの問題か?歌う曲の違いか?はたまた髪質の違いか?…。心の中で秘かに自問自答を繰り返しているところへM先生がやって来た。おかっぱ頭の私を見て「Muy bien!」と笑顔。そして明るく朗らかに続けた。「あのmonstruo(怪物)みたいな頭よりずっといい」mo、mo、monstruo?やっぱり、やっぱりそう思っていたんだ…
「演奏会で着てほしいものがあるの」奥様がクローゼットから出してきたのは、美しい白いレースのボレロだった。「母が祖母から受け継いだレースよ。亡くなる直前に私に渡してくれたの。いつかきっとこのレースにふさわしい場が与えられると思っていた。メグミ、これを着て歌ってくれない?」奥様からお母様の話を聞いたことがあった。お父様が早く亡くなり、ひとり娘の奥様とお母様は母娘寄り添って生きて来たという。「私たちは“一滴の水のように”いつも一緒だった」と語る奥様は、目にいっぱい涙をためていた。その亡きお母様の大切な形見のボレロを私に着せてくださるというのか。M先生も横で大きく頷いている。胸が熱くなった。Sala de Cienでの演奏会はもちろん素晴らしいけれど、M先生ご一家がこれほど喜んでくれている、そのことが本当に嬉しかった
ボレロに何を合わせる?日本から持ってきた黒いロングスカートがある。ウエストぎゅうぎゅうは間違いないが何とか入るだろう。下はこれで決まりだ。ボレロの中に着るものはどうする?絶対に黒が映えるけれど、私は安物のタンクトップしか持っていない。奥様に貸してもらおうにもサイズが合わない。新しく買うとして、さて、あの繊細なレースに合う品がうまく見つかるだろうか…。名案が閃いた!「私が編みます」「…」M先生も奥様もポカンとしている。実は私は編み物が好きだった。京都にいた頃は、色々な糸を買い集めて自分好みのセーターをよく編んでいた。アパルタメントから地下鉄の駅に向かう道の途中に手芸用品店ある。前を通るたびに入りたい衝動に駆られたが、入れば必ず糸を買ってしまう。糸を買えば編み始めてしまう。バルセロナでの限られた時間を編み物に費やすのは、さすがにもったいない気がしていたのだ。堂々と編み物が出来る!わくわくして来た。あの店で白いレースに合う材質の糸を買ってきて編めばいい。サイズもピッタリ。一番間違いがない。「メグミ、本当に出来るの?もしも間に合わなければ、演奏会で着るものがない」奥様は心配していた。「大丈夫です」私はその日のうちに微かに光る黒いレース糸と編み針を買い込み、ボレロにお似合いのノースリーブ・ブラウスをひと晩で編み上げた
出版記念演奏会は6月10日に決まった。楽譜集はa principios de junio(6月初旬)に納品される予定だ。何とも曖昧なa principios …。間に合うのか?
(つづく)
以上は、日西翻訳通訳研究塾のメールマガジン『塾maga2012年05月号(No.139)』に掲載されたものです |
|