谷 めぐみ の 部 屋
 


 

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Hola Barccelona
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スペイン歌曲の歌い手

「谷 めぐみ」の歌修行 "Hola! バルセロナ" - その42 -

¡Hola! バルセロナ(42)
6月に入った。「Sala de Cien演奏会」の伴奏合わせのためにM先生のお宅にうかがう。レッスン室の壁でニッコリ微笑むヴィクトリア・デ・ロス・アンへレスの写真。一年前、おそるおそるこの部屋に入った時から、どれほどこの写真に“バルセロナ”を実感し、勇気づけられたことだろう。すっかり慣れ親しんだこの生活がまもなく終わるとは、とても信じられない気がした。「ヴィクトリアも『Sakura』を歌ってみたいそうだ」とM先生が言っていた。私が書いた解説と歌詞のスペイン語訳を見て、あのヴィクトリア・デ・ロス・アンへレスが歌ってくれるなんて!「頬っぺたをつねってみた。痛い!あぁこれは夢ではないのね」などという陳腐なフレーズが心に浮かぶ。バルセロナの街に、しかもSala de Cienという由緒ある場所に、日本の歌が響き渡ろうとしている。ちっぽけな私の存在など越えて、かけがえのない“奇跡”が実現されようとしている。夢なら覚めないでおくれ、そんな気持ちだった

スペインと日本では「民謡」をとりまく事情が違う。ファリャの「七つのスペイン民謡」や「ガルシア・ロルカ採譜によるスペイン古謡」などの作品に代表されるように、スペインの音楽家はスペイン民謡を大切にする。そしてそのスペイン民謡の中でも、自分が生まれた地方の民謡をとりわけ大切にする。カタルーニャ人であるヴィクトリア・デ・ロス・アンへレスやホセ・カレーラスは、「鳥の歌」「聖母の御子」などのカタルーニャ民謡を自身の演奏会のプログラムに入れて歌っている。クラシックの声楽家が民謡を歌うのはごく普通のことなのだ。日本は違う。「民謡」というジャンルがあり、民謡専門の歌い手がいる。スペインの歌のメリスマと日本民謡のこぶしが似ている、などと説く向きもあるが、民謡歌手独特のあの張りのある声と節回しの見事なこと!どう逆立ちしても私は彼らのようには歌えない。M先生から初めて日本民謡の話を聞いた時、そのことが頭をかすめ、かすかな不安がよぎった。しかし一方で、M先生が日本の旋律にインスピレーションを受けて編曲した作品は興味深かった。優美な和の香りあふれる「さくら」、哀調をおびた「子守歌」、「音戸の舟唄」の豊かな響きは地中海ブルーのイメージと重なるか…。ついジャンル分けに捉われてしまう私より、ずっと素直に日本の音の魅力を感じ取ってくれている。どの作品にもM先生の日本への憧憬、親愛の情があふれていた。日本人の私がしり込みをしている場合ではない。この際、私は日本の歌のmensajera(使者)となり、楽譜集のために全力を尽くし、私の声で、私の心で真っ直ぐに歌おう。そう決心したのだった

予想通りというべきか、5日になっても7日になっても楽譜は納品されなかった。演奏会当日に間に合わなかった場合の対策について、M先生と奥様が相談を始めた。「でも、当日の朝に届けば間に合う」「絶対に遅刻できないわ」「何時に家を出る?」「それはリハーサルの時間しだい」「リハーサルが出来るかどうか分からない」「じゃあ時間の決めようもない」会話がグルグル回っている。「エヘン!」ものものしい咳払いをして、私は言ってみせた「¡Si Dios quiere!」…一瞬の沈黙。M先生がゲラゲラ笑いだした。実はこれはM先生が私を諭すときの決め台詞である。「こうすればああなる、ああすればこうなる、こうなるかもしれない、ああならないかもしれない、でも…」と私の思考回路がグルグル回り出すと、M先生が厳かに言うのだ。「メグミ、人間に分かることはたかが知れている。Si Dios quiere(神様の思召しに適えば)だよ」と。そうだなぁ、と、妙に納得して私は思考の迷路から脱出する、というわけだ。もとはと言えば、この演奏会の期日は私の帰国日に合わせて決まったものだ。それさえなければ、もっと余裕をもった日程を組めたのだ。ありがたく、そして申し訳ないことだった

演奏会前日の6月9日、最後の伴奏合わせにM先生のお宅にうかがうと、テーブルの上に『日本民謡集』がうやうやしく鎮座していた。明るい朱色の表紙、父の毛筆による題字、表紙を開けば、私が一文字ずつ手書きした日本語のご挨拶文、同じ文章のカタルーニャ語訳、スペイン語訳、日本語の読み方の手引き、そして第一曲目の「さくら」…。美しい仕上がりだった。「この一冊目をメグミに捧げよう」M先生がさらさらとサインをしてくれた。「おめでとう」と母上。「明日の予行演習にメグミが衣装を着てみるのはどうかしら?」と奥様。皆、一様に安堵の表情を浮かべている。間に合ってよかった。本当によかった。「Vamos a trabajar(さぁ仕事を始めよう)!」M先生の号令で伴奏合わせ開始だ。いよいよ明日は本番である
(つづく)
  以上は、日西翻訳通訳研究塾のメールマガジン『塾maga2012年06月(No.140)』に掲載されたものです