e-添削入口 受講料 添削例 申込み e-Mail FQA
システム コース 無料レベル・チェック 講師紹介 通学塾 CASA

スペイン語文法 番外編 (第一編)

馬耳東風 (第二編) スペインの慣用句 (第三編) マヤ暦のページ


===========================================
Monólogo de un pasota == Serie II -14 ==
===========================================

『馬耳東風』 第二編 (スペインの政経社編) 第14話

『スペインの陪審裁判制度』 (特別編)(その2)

  前号から始まりましたこの『スペインの陪審裁判制度』ですが、この制度は現在の日本にはない制度だということは前号でも若干触れましたが、スペインでの制度について情報をもらっても理解しにくいと言う方もおいでだと思います。日本では現在、制度制定、正確には、この制度の復活を目指して準備中であるということもあり、スペインの陪審裁判制度の勉強をする前に、まずは日本の制度について知識を身につける必要がある、つまり、本塾の理念でもある『背景』を学んでいただきたいと考えました。

  そこで、現在法学の勉強に集中するために休塾されている『須田 孝恵さん』に無理をお願いし、その辺りのレポートを寄稿していただくことにしました。彼女は、社会人でもあるのですが、本塾の『お隣さん』でもある法政大学の法学部3年生でもある、実に勉学意欲旺盛な塾生で、本塾としてもその将来を大いに期待している逸材です。将来は弁護士、検事、裁判官、いずれにしても、非常に高いスペイン語の能力(翻訳プロクラスに所属)を併せ持つジュリストが誕生するのも間近で、大いに楽しみです。

  尚、日本の陪審制度の経緯を詳細に、そして実にしっかりとした文章で記述して下さいましたので、ほとんどまったく手を加えずに紹介させて頂きます。以下、須田さんのレポートです。

  昨今日本でも「司法改革」論議の一環として国民の司法への参加や裁判員制度の導入などが取り沙汰されている。しかし、かつて我が国でも一時期ではあるが、陪審制度が施行されていたという事実は一部の人を除いてあまり知られていないかもしれない。今回、『e-yakuニュース』の方から依頼され、ちょうど良い機会だと思い、この日本の“幻”の陪審制度を振り返ろうと私なりに調べてみた。

  日本で初の陪審法は1923年(大正12年)に制定され、5年の準備期間を経て、1928(昭和3年)に施行、1943年(昭和18年)に「陪審法ノ停止二関スル法律」によって「停止」(よって、現在でも廃止されてはいない!)されるまで、15年にわたり実施された。この間の陪審裁判件数は484件で、そのうち81件(17%)が無罪となった。

  この法律(陪審法)は自由民権運動が盛んだったいわゆる「大正デモクラシー」の時代、当時の最有力政党立憲政友会のリーダーであった原敬が中心となり、立憲政治確立と権利擁護の気風を背景に制定が企図されたものであった。原は明治42年の日糖事件といわれた政治疑獄における検察側の捜査・取調べの苛烈さと翌年の幸徳秋水ら一連の社会主義者、無政府主義者が天皇暗殺計画につらなった容疑で逮捕、起訴された「大逆事件」の証人調なしの事実認定などを知って、陪審制の必要と推進を強く決意したといわれる。

  その後、1918年(大正7年)に原敬内閣が誕生すると、陪審制度に関する本格的な立法作業が開始されたが、裁判官の資格を持たない者が裁判に関与することは大日本帝国憲法57条にいう「天皇の裁判所」(司法権ハ天皇ノ名二於テ・・・)や「裁判官による裁判」などの規定に反して憲法違反であるという反対論にあい、立法は困難をきわめた。結局、法案作成に奔走した当の原敬は陪審法の成立をみることなく、大正11年に暗殺されてしまうのだが、その後様々な紆余曲折をへて、当初の法案にかなり大幅な修正が加えられた先の陪審法がついに大正12年に誕生することになる。

  その陪審法によると、陪審裁判には法廷陪審と請求陪審の2種類があって、一定の事件について当然に陪審の裁判になる法定陪審は「死刑、無期懲役・禁固にかかる事件」であったが、この場合も被告人は陪審裁判を辞退することができた。一方、被告人の請求によって陪審裁判となる請求陪審においてはいつの段階でも取り下げが出来た。その上、陪審にかかり有罪になると控訴が出来なくなることや、請求陪審の場合で有罪になると陪審費用の全部または一部が被告の負担とされたことなどもあって、陪審を辞退する被告人も多く、実際に実施された陪審の件数はかなり少ないものとなった。

  陪審員資格については、引き続き二年以上同一市町村に居住し、かつ直接国税三円以上を納め、読み書きのできる30歳以上の男子に限られていた。陪審員の数は12名とされ、答申は有罪の場合でも過半数でよく(通常陪審制では全員一致が原則)、陪審がいったん評決をくだしても、裁判所がその答申は不当だと認めるときは、再度、陪審を招集してもう一度やり直しができる「陪審の更新」という制度があり、その答申に裁判官を拘束する力がなかったことが陪審法の価値を決定的に低下させたと評されている。そのほかにも、裁判長は陪審に対して、当該事件に関しどんな法律上の論点や問題があるかを説明する「説示」を行っていたが、その説示に対して弁護人は異議を申し立てることが一切許されていなかった。

  このように制度自体が被告人に不利に作られていたことや、素人を信頼・尊敬しない官尊民卑の風潮とあいまって、陪審法実施初期には年間100件を超えた陪審制度も次第に使われなくなり、陪審法は大戦の戦況が悪化する中、昭和18年に施行が「停止」して、現在にいたっている。

  第二次大戦後、新憲法制定過程や裁判所法・刑事訴訟法の制定過程において、陪審制や参審制に関する議論が行われてはきたが、憲法などに明文で規定されるには至らず、政府や司法当局は、わが国の国情や国民性に不適合であるなどの理由で、その採用を拒否してきた。しかし、「陪審法ノ停止ニ関スル法律」の付則で、陪審法は今次の大戦終了後に「再施行スルモノ」としており、現在の裁判所法第3条3項は「この法律の規定は、刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない」と規定して、陪審制度を予定していることから何からの形による国民の裁判参加はいつでも可能であるようだ。

  旧陪審制を経験した存命中の関係者を対象にした当時の陪審員に対する評価の調査によると、陪審員に対して信頼感はあったとする意見となかったという意見とに2分されるが、その事実認定能力については、「職業裁判官に比べて優れている」、「遜色なし」とする回答が半数近くを占め、中立的な立場から判断できる、法律家とは違った観点から判断できるなどの肯定的意見が多く見られた。しかし、当時の陪審裁判制に対しての評価では、否定的意見が多く、素人判断に対する不安を指摘するものもあるが、おおむね旧陪審制の制度的な欠陥や手続きの面倒さ、費用がかかるなどの点に原因があるようである。陪審制度復活については、条件付を含めて7割近い人が賛成を示し、国民の司法参加の観点から賛成するだけでなく、特に刑事事件においては冤罪などの防止の観点を指摘する人も数多い。事実、わが国の陪審法も前述の制度的欠陥を有しながらも、17%もの無罪判決がでており、その点から見ると、陪審制度は日本においても被告人の基本的人権を擁護し、誤判防止の機能を有していたといえる。

  皆さんのもとに「裁判員候補者通知書」といったような召喚状が突然来る日もそう遠くないかもしれない。人によっては裁判或いは陪審員制度は時間的な拘束もあるので、「面倒くさい」と感じたり、場合によってはある人間の一生や運命まで左右してしまう責任の重さに戸惑いを覚えるかもしれないが、今まで職業的な裁判官、検事、弁護士の独壇場であった裁判の場にごく一般の人の判断・意見が入ることは決して悪いことではないと思う。今後主役である国民を巻き込んで、もっと実施に向けての具体的な議論をしながら過去の陪審制の反省に基づき、より公正で、妥当な、誰もが納得のいく結論を導く裁判の実現に向かってくれればよいと思う。


  以上は、本塾のメールマガジン『e-yakuニュースNo.29(2003年03月末号発行)』に掲載されたものです