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スペイン語文法 番外編 (第一編)

馬耳東風 (第二編) スペインの慣用句 (第三編) マヤ暦のページ


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Monólogo de un pasota == Serie III -09 ==
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第三編 『スペインの慣用句』 (その九)

    今号の慣用句の主体となるものにはものを集めてみた。つまり、名詞の中でも『物・モノ』などとして大ざっぱな分類しかできないものだが、《mono》ではない。この動物はもうNo.5で扱った。漠然としたこうした『モノ』を主体にした慣用句は結構ありそうでないものだ。

1. 『estar de bulto』・『ir de bulto』・『hacer bulto』
    《bulto》は、単数だと「ふくらみ・こぶ・腫れ物」、複数だと「手荷物・包み」などと辞書に書かれている。もっとも、「手荷物が一つしかない」場合でも無理矢理複数形にする必要はないが、《Tengo un bulto》とだけ言うと、「たんこぶができた」のか?それとも、「手荷物を一つ持っている」のか?とは即座に理解し難いところだ。したがって、そんな場合は、「一つしかもっていない」ことを強調しつつ《Tengo un solo bulto》だとか、あるいは、《Tengo un bulto en mano》と言えば理解してもらえるだろう。但し、必ずそう理解されるとは保証しかねるので、やはり、《bulto》なる曖昧な言葉ではなく、手になにを持っているのかを明確に言った方がいいかもしれない。

    さて、肝心の慣用句の意味だが、3つも同じようなものが並んでいてはその差の理解が難しいのではないか?と心配されるかもしれないが、みなさんはご心配無用。それよりも、これら3つの使用方法が結構微妙なので、うまく説明できるか、実はこちらの方が心配だ。というのも、これら3つの慣用句の意味が微妙に交差している上に、それぞれ肯定的にも否定的にも両方の面で使用が可能だからだ。つまり、意味の源は3つとも同じようなものなのだが、すべては話し手の真意次第だからだ。根底に流れている意味は、『邪魔をしている・頭数を揃えている・場所をとっている』などだ。したがって、以下の例文に沿って話を進めることにしよう。

    例-1) Ese hombre gordo estaba de bulto en el avión.
    例-2) Ese hombre gordo va de bulto en el avión.
    例-3) Ese hombre gordo hace bulto en el avión.
        (あの太った男は飛行機の中で場所をとっていた)

    つまり、「男の存在は邪魔以外の何者でもなかった」と言う意味にもとれれば、「飛行機の乗客は少なく機内のスペースは空いていたはずが、大変太っちょの彼の存在自体が、頭数を増やしていただけではなく、見た目にも機内は結構満員のように見えた」といった状況も考えられるわけで、スピーカーがこれをどのような気持ちで表現したのかが判明しない限り、いずれの意味なのかは、上記のような短い文章だけでは分からない。したがって、この短文だけでは正確な訳はできないことになる。まあ、慣用句は基本的に口語なので、状況が分からないと言うことはまずないのだろうし、もし文章として書かれていたとしても、必ず前後関係の情報も同時に与えられているはずなので、その真意が分からない、ひいては、訳もできないということはないだろう。さらに、皮肉を込めているのか否かについても同様のことが言えるが、いずれにしても、これらの慣用句は、基本的に背景のみではなく、発話者の真意を知らない限り理解は難しいということを知っていただければ幸いだ。

2. 『doblar las campanas』
    「鐘を二重にする」?「鐘を二つに折る」?そりゃ無理だろう。無論、「この世の中不可能はない」と言い切るやからもいないことはないが、この慣用句の意味はそんな無茶なことではなく、『弔鐘を鳴らす』となる。あくまでも弔いのための鐘なので注意されたい。したがって、鐘の音と音の間は少々のインターバルがおかれ、沈黙が支配するような鳴らし方がされる鐘の打ち方がされる。この表現は、一応慣用句とされているが、頻繁に日常会話の中にでてくるものではない。しかし、下の例のように、これを使った有名な小説(映画)の題名がある。あの知的な美女イングリット・バーグマンのほとんど丸坊主のような髪型が大変印象的な名作だ。ヘミングウェイがスペイン内戦を、共和軍の立場から描いた作品だったが、映画はついにフランコ没後のしばらく後までスペインでは公開されることはなかったという曰わく付きの作品だ。

    例) Para quién doblan las campanas.
        (誰がために鐘は鳴る)

3. 『estar como una cuba』
    慣用句には、まったくもってなぜそのような意味になるのか理解に苦しむものが山ほどあるが、これもその一つだ。《cuba》は小文字なので、カストロのキューバではないのでご注意を。《cuba》はバケツのような大きな容器を指す。もっとも、《Cuba》はそんなに大きくないのが...。ともあれ、「バケツのような状態になっている」のは、むろん人だ。つまり、人のバケツ化、というわけだ。人間がバケツのようになればどうなるか?理解に苦しむ。馬鹿ばかり言っていないで早く慣用句の意味をいえ、とお叱りを受けそうだが、いろいろと書くその真意は、必ずしも《para hacer bulto》ではないのだが、そういう場合もある。意味は、何のことはない。『酔っぱらっている』で、それも相当の酩酊状態の時を言う。

    例) Está como una cuba y se le traba la lengua.
        (ひどく酔っぱらっているし、ろれつが回ってないよ)

4. 『pasar factura』
    《factura》は、請求書・勘定書など、いわゆるインボイスと呼ばれる商業上の書類のことだ。『など』と言ったその真意は、《factura》には請求書以外の意味はないと思い込んでいる人がいるからだ。一般的に請求書を指す場合が多いが、けっしてそうではなく、ラテン語の《factura》が語源である『霊験あらたかなお言葉』なので、もう一度辞書を確認していただきたい。いずれにしても、「請求書や勘定書などが送りつけられる」のはあまりうれしくないので、『つけを回す・つけが回る・貸しを作る』などという意味で使用される。

    例-1) El abuso de alcohol siempre acaba pasando factura.
        (お酒の飲み過ぎは必ず身体にそのつけが回ってくる)
    例-2) Francia pasará factura al Gobierno español por las expulsiones de etarras.
        (フランスはETAのメンバーの国外追放でスペイン政府に貸しを作った)

5. 『dar jabón』
    《jabón》は、スペイン語の初心者がよく《jamón》や《Japón》と言い間違えたり聞き間違える単語だ。ともあれ、『石鹸を与える』ってなんのことだろう?お歳暮の時期でもあるし...。まあ、近頃では石鹸を送る人も少なくなったようだが、石鹸なら腐らないし、必ず使うものなのでもらう方は結構ありがたいのだが、傾向としては、石鹸のお歳暮は「ダサイ」らしい。ともあれ、小生はスペインクラブからワインを送るのが常だったが、つい先頃倒産してしまい、今年はどうしようか…などと、悩んでいる場合ではない。本題に戻ろう。でも、これはけっこう頭痛の種なのです。

    さて、石鹸は水をつけて擦ると大変滑りやすくなる。これを口に入れれば、口の中は泡だらけになると同時に、ひょっとしたら、大変喋りやすくなるかもしれない。それなら、警察がこれを犯人の口につっこむことをいう、な〜んてことはないものの、それがけっして遠からずなのです。そう、慣用句の意味は『おべっかを言う・おせいじを言う』のことなのです。口を開けばペラペラと背筋がゾッとするような歯の浮くようなことを言ってゴマをするヤツっていますよね。あ〜イヤだイヤだ。

    例) Ése nunca cansa de dar jabón a su jefe.
        (やつは上司におべっかを言うのにけっして疲れない=よくもあれだけ上司におべっかを使って自分でいやにならないのか)

6. 『¡A buenas horas mangas verdes!』
    日本語のアニメや劇画のお陰で、『漫画』という日本語も国際的になりつつあり、実際スペインでも《Manga》で通用する。しかし、ここでいう《manga》は「(腕の)袖」のことだ。いずれにしても、これは慣用句と言うよりは感嘆文に近いが、いわゆる決まり文句という点ではやはり慣用句に属すると思われる。実際、下の例のように、他の文章と組み合わせての使用も可能だ。直訳すると「緑の袖が良い時間に!」ということになるが、これだけでは何を言いたいのか分からない。しかも、実際は「グッドタイミング」ではなく「バッドタイミング」なのだ。つまり、『後の祭り・遅きに失する』という意味だ。

    因みに、《mangas verdes》とは、15世紀にかのカトリック両王が創設した、今で言うところの警察に相当する『Santa Hermandad』と呼ばれた、法の番人をしていた組織のことで、その一団のユニフォームの一部、つまり、その袖の部分が緑色だった。つまり、それが目印というか、彼らのトレードマークのようなものだったらしい。つまり、遠くからでも『Santa Hermandad』が来たぞ!とこの袖の色で判別ができたわけだ。彼らは、特に田舎の方の取り締まりをしていたらしいが、何しろ当時のことで電話も何もなく、事件が起こり、知らせを受けてやってくる『Santa Hermandad』は、通常、いや、常にもう泥棒(例えば)は逃げた後。そんなところからこうした慣用句に使われてしまったわけだ。したがって、「時間に遅れる」ということから、この慣用句は、多くの辞書で《manga》ではなく《hora》を主体として捉えているようだが、主体はやはり《mangas (verdes)》にあると思われる。

    例) ¡A buenas horas mangas verdes!, que si ya no me lo hace falta.
        (「今更もう遅いよ。もう、僕、いらないよ」)
        これをちょっと昔風に言うとこうなる (「六日の菖蒲十日の菊、というところかのう。もうそんなもの必要なくなったわい」)

7. 『estar como una moto』
    モーターバイクがバイク。《motocicleta》が《moto》。古今東西略語はお好きなようだ。それにしても、日本語では前半部分を、スペイン語では後半部分を各々「不必要な部分」として省略するというのは、実に興味深いものがある。ともあれ、「バイクのような状態になっている」とは?「うるさい」のか?「よく走る」のか?それとも、「ブルブル震えている」のか?いずれかといえば、この場合は三番目の可能性が最も本来の慣用句の意味に近い。つまり、バイクのようにたえずブルブル震えている状況から『イライラして』じっとしていない状態を表現しているわけだ。しかし、もう一つ別の意味(『気が狂ったような』)があって、これも1番同様状況で決まる。

    例-1) En los días de examen ella siempre está como una moto.
        (彼女は試験の日になるとまったく落ち着きがない)
    例-2) ¡Oye, que hagas algo!, que tu amiga está como una moto, no para de hacer tonterías.
        (おい、何とかしろよ君の友達を。バカばかりやって止めそうにないよ)

    今日はこの辺で終わりにしよう。では、読者諸氏からの質問や意見をお待ちしている。(文責:ancla)

    以上は、本塾のメールマガジン『e-yakuニュースNo.25号(2002年11月末発行)』に掲載されたものです

 

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