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スペイン語文法 番外編 (第一編)

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Monólogo de un pasota == Serie III -13- ==
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第三編 『スペインの慣用句』 (その十三)

      さて、今回からこのスペインの慣用句シリーズも2年目にはいることになるが、今回は人間・人をテーマにした慣用句を扱ってみることにしよう

1. 『no tener abuela』
      「おばあちゃんをもたない」、つまり、「おばあちゃんのいない人」というか、いない人はいないので、「おばあちゃんを知らずに育った人」のことを指すわけだが、それは通常文の場合で、これが慣用句として使用されると、《no》の付いた否定文が肯定文に化けてしまうから要注意だ。逆はまた真なりで、逆のことを言うことによって皮肉的に『おばあちゃんっ子』ということになる。つまり、『自慢やさん』・『自惚れやさん』を意味するわけである。何故かといえば、これは日本のおばあさんたちも同じかも知れないが、大昔からの習わしとでも言おうか、サガといおうか、おばあさんたちというのは、どうも悪い癖があり、我が孫を掌中の珠とばかりにかわいがって何でも与えてしまう。そこでこうした手の付けられないわがままな子ができてしまうというところからこの慣用句ができたらしい

      例) Ese muchacho presume de ser el mejor; desde luego, no tiene abuela
            (あの子は自分が最高だと思っている。それもそのはず、おばあちゃんっ子だからな)

2. 『como cualquier hijo de vecino』
      「どこにでもいる近所の息子さんと同じように」っていわれても、もう一つピンとこない。『人』は必ず誰かの息子か娘であるわけで、そんなところから《hijo》が代名詞的に使用されているだけなのです。ご近所の息子さんが、賢いのか、ハンサムなのか、阿呆なのか、そういったことは関係ない問題で、実際のところ、近所の息子でなくても誰だって言い。要は、そこいらにウジャウジャといる『人』のことを言っているわけで、そう、つまり、この慣用句の意味は『誰でも』・『みんな』ということを、少々持って回った言い方で表現しているだけなのです。まあ、もっともだからこそ慣用句なのですが

      例) Tengo mis problemas como cualquier hijo de vecino.
            (僕にだって人並みに悩み事はあるさ)

3. 『mirar de hito en hito』
      え?《hito》って、どんな意味だったっけ?何か今回のテーマと関係のあるような意味だったかな?と疑問をもたれた方はなかなかの語彙能力のある方です。《hito》とは、「画期的な出来事」・「標石」・「マイルストーン」などの意味を持つ単なる名詞で、何ら『人間』とは関係ありません。でも、『人』とは大いに関係があります。「ひと」だからです。え?スペイン語って《hアチェ》を発音したっけ?いえ、アンダルシアや中南米では若干音として発音されて出てくるようですが、通常は音としては出てきません。でも、まあ、良いじゃないですか。ちょっとしたシャレです(これをおやじギャグという)。《hijo》の項目を眺めていたら《hito》が目に入ったので、つい...。さて、「マイルストーン」はマイル毎にしかないわけですから、それほど離れている間中見るというのは、かなりのストーカー。マイル並のストーンカー。冗談はさておき、そんなところから、『じっと見る』・『じっと見つめる』のような慣用句の意味になる

      例) Llegué tarde a la clase y el maestro me miraba de hito en hito hasta que me senté.
            (授業に遅刻していったらさあ、先生が私が席に着くまで私のことをじっと見てるのよ)

4. 『ciento y la madre』
      「100とお母さん」??。カルロス・サウラ(Carlos Saura)の映画に「ママは百歳(Mamá cumple 100 años)」というのがあったが、あれはフランコ時代以降の民主化過程のスペインを風刺的に描いた映画だったので関係はないと思われるが、では、いったいこれだけの言葉で何を言いたいのか?といえば、なんのことはない、『多くの』・『山ほどの』と言いたいだけなのだ。それにしても、100はまだ分からないでもないが、何故《madre》なのだろうか?母は大きな存在だからなのだろうか?それに、何故《ciento》であって《cientos》ではないのだろう?おそらく複数形にすれば、こんどは《madre》が特別の意味を持ってくるからだろうと思われるが、この点については定かではない

      例) Éramos ciento y la madre.
            (僕たち、沢山いたよ)

5. 『como un niño con zapatos nuevos』
      「新しい靴を手にした子供のように」。少々直訳ではない訳になってしまったが、この方が分かり易いだろう。この慣用句は《no tiene vuelta de hoja=明白である。この慣用句はまたあらためてご紹介する予定》。この慣用句についてはなにもコメントは必要ないだろう。つまり、このままでも十分に『新しい靴を買ってもらって嬉しくてたまらない子供』の姿とその情景が目に浮かんでくるからだ

      例) Mi abuelo no está quieto como un niño con zapatos nuevos ante su primer viaje al extranjero.
            (私の祖父は初めての海外旅行を前に子供のようにはしゃいでいるの)

6. 『ni qué niño muerto』
      5で終わろうと思っていたのだが、余りにも簡単で分かり易い慣用句を最後にもっていき、さらりと終わったもので、これはひょっとすると手を抜いたな?と思われてもしゃくなので、もう一つ《niño》が使用された慣用句をご紹介しておこう。但し、外国人としては、あまり使用しないようにも同時にお勧めする。もっとも、これを言われたときにはどんな意味なのかを知っておく必要はあるのでご紹介する。これは、慣用句というか、感嘆詞風の表現で、何らかの意見や、要求を拒否・却下するときに、その拒否・却下の意味・意志をよりいっそう相手に強く伝えるために使用される。因みに、この表現は、その昔、人口調査の際に、洗礼も受けることなく死んだ幼い子供を数えるのか否かと言うときに出てきた表現だといわれている

      例) ¿Que me dejaste a mí el libro? ¡Qué libro ni qué niño muerto!
            (なんだって?俺に本を貸しただって?何をたわごと言いってんだよー)

      今回はこの辺で終わりにしよう。次回も人間・人をキーワードにした慣用句を続けてみよう。ご質問やご意見をお待ちしている。(文責:ancla)

      以上は、本塾のメールマガジン『e-yakuニュースNo.31号(2003年05月末発行)』に掲載されたものです

 

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