「左」 (その1)
ある評判の整体師が発行しているメルマガを読んだ。哲学は自然であること。ほどほどの運動、太陽のサイクルにあわせた早寝早起、添加物のない安全な食物を摂取することで、快眠・快食・快便、すなわち、健康は得られると言っておられる。それは良いが、驚いたのは、その長年の経験から「多くの癌の兆候が体の左側に現れることが判った」というのだ。例えば、左足が細くなる、鼻筋が左側に湾曲する、左肩が上がる(或いは下がる)、左肩の凝りがひどい、左の起立筋が盛り上がる等だ(「医者も知らないガンの前兆」)
そこで、西洋語では「左」にはろくな意味がないことに思い至った。「右」は正当性・巧妙なことを意味する一方、「左」は逆に非正当性・愚鈍なことをさす。スペイン語の形容詞「不吉な=siniestro」は「左の」を意味する。イタリア語(sinistro)も英語(sinister)でも同様だ。また、英語で「左」を「left」というのは「right(右/正しいこと)」の残りのものという意味からだという。「Parece
ser que hoy me he levantado con el pie izquierdo.」は、「今日はついていないようだ」だ。そして、旧約聖書の「伝道の書」第10章2節がそのとどめを刺してくれる。「知者の心臓は右側にあり、愚者の心臓は左側にある」と。「左」はまさに踏んだり蹴ったりだ
この「左」の不遇にはそれなりの理由があるはずだ。すなわち、全歴史を通じ俊敏利発にあらゆる人間活動をこなしてきた優秀な「右」手に対し、「左」手はばかでのろまで使いものにならないと軽んじられてきたのだろう。さらに、前述の「医者も知らないガンの前兆」が指摘するような、左側に重篤な病気の兆候が現れることもすでに知られていたのかもしれない。こうして「左」には更に忌まわしいニュアンスが加わってきたというわけだ
しかし、ほとんどの人が右利きなのは、心臓がある左を守るためだという自然の摂理を忘れてはならない。利き手側の方が危険にさらされる可能性は高い。そのため、生命の根源たるポンプを守るために右側が危険を引受けてきた。左はその役割の重要性故にしかるべく保護されてきたのだ。優劣や上下関係にばかりとらわれるのではなく、フェミニズムよろしく、役割の問題であることに思い到ろう。公平な視点を欠き、「左」ばかりを冷遇するのは「《左側に心臓のある》愚かな奴ら」のやることだ
日本語でも、「右に出る者はいない」と言うように、右を上位、左を下位とみなす観念があり、「(頭が)左巻き」、「(商売が)左前」、「左前(に着物を着る)」、「左遷」など、「左」にまつわるネガティブな表現は断たない。しかし、日本語ではその辺り比較的混沌としており、例えば、左大臣・右大臣では左大臣の方が上位にあるし、二人が並んで座る時には向かって左の方が上席である。「左前に着物を着る」のは死人だけだが、「左前」とは左の前身頃を右の前身頃の下にして着ることで、実際には右前ではないのかというカオティックな表現である。「左うちわで暮らす」とか「(飲兵衛の)左利き」と言った表現も、左側が非正当であることと無関係ではなかろう。ネガティブ系の表現ではあるが、こんなお気楽な表現に出会うと少しホッとしないこともない Gatito
Umi-chan
以上は、本塾のメールマガジン『e-yakuニュースNo.56(2005年06月末発行)』に掲載されたものです |