鬼は私?
Recuerdo de mi gatita Mii-chan
夏は洗濯の季節だ。汗でたっぷりと汚れ、よれよれになった衣類を洗濯機にどんどん放りこんでは次々と洗う。そして、“さんさん”を通りこして、“ぎらぎら”と照りつける太陽の下で乾燥と消毒をすますと、さっぱりとした清潔な肌触りがよみがえる。とても、洗濯前の汚れ物と同一のものとは思えない気持ちのよさだ
「鬼の居ぬまに洗濯」という表現がある。「怖い人や気兼ねする人のいない間に、思い存分くつろぐこと。(大辞泉)」だ。ここでいう洗濯とは、「命の洗濯」のことである。ゆめゆめ、川に洗濯をしに行ってはいけないよとプレッシャーをかける怖い人が居ない間に…という状況のことではない。洗濯の気持ちの良さを知っている我が家の洗濯当番には、この表現が、身も心もせいせいとするリフレッシュタイムを意味することが容易に理解できる
洗濯というと思い出すのは、二層式の洗濯機の脱水層の上にちょこんと座って洗濯層を眺め、渦と同じ方向に顔をぐるぐる回しながらあきもせず洗濯を鑑賞していた今は亡きミィちゃんのことだ
彼女がえんえんと洗濯機の上でヒマつぶしをしている間、彼女から解放されてリフレッシュタイムを楽しみ、浮かれていたのはいったい誰だったのだろう?
ボスが休暇で重しがとれるのは秘書。先生が休みでのびのびするのは生徒。亭主が出張で羽をのばすのは女房。猫がいなくてうきうき踊るのはねずみ
「Cuando el gato no está, bailan los ratones.(鬼のいぬまに洗濯)」
でも、私は知っている。彼女にせいせいされていたのは実は私だったことを。「ただいまぁ」と外から帰っても迎えてくれない夏の日の彼女は、たいてい、絶対に上ってはいけないときつく禁止されていた食卓の上でながながと寝そべっていたからだ。そこは風通しが良く家中で一番ひんやりした場所だった Gatito
Umi-chan
以上は、本塾のメールマガジン『e-yakuニュースNo.57&58夏合併号(2005年08月末発行)』に掲載されたものです |