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スペイン語翻訳通訳

Instituto de Traducciones de Tokio

翻訳・通訳学習を通して、本格的に、そして、本腰を入れ、じっくりとスペイン語を学び、実践的なスペイン語能力を身に付けたい、伸ばしたい人のための塾です


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e-Ten添削模範解答見本

 

素晴らしい答案を提出された生徒(ニックネーム:COSTANZA)さんの 翻訳とその添削例をご紹介します

些細なことについて敢えてコメントしなければ、ほとんどなんらコメントをする箇所もなかった答案でした
確かに、特に難解でどうしようもないというほどの課題ではありませんでした。だからといってこれほどの翻訳をすべての人ができるとは限りません
日本語への訳出語もこなれており、また、読み手にも優しい、翻訳文とは思わせない文章となっています。ほぼ「自由作文」のレベルに達しています
無論、スペイン語の理解度も高いからなのですが、それだけではこれほどの翻訳文はできません
COSTANZAさん。あらためてオメデトウを申し上げます
Texto
Con el auge de los nacionalismos en el siglo XX, numerosos historiadores han escrito libros donde han pretendido demostrar que era sefardí, italiano, francés, inglés, griego, de Córcega, de Pontevedra, de Plasencia, de Ibiza, de Guadalajara y de Portugal. Su barco fue hundido, en un combate naval de la susodicha guerra civil, frente a Lagos (cabo San Vicente) el 13 de agosto de 1476, y logró arribar agarrado a un remo a la costa portuguesa. Allí casó, en 1478, con una noble portuguesa, Felipa Moñiz, matrimonio en aquella época imposible —una mujer noble no se podía casar con un plebeyo—, si hubiese sido el hijo del tabernero Doménico Colombo y la tejedora Susana Fontarrosa, como pretenden los nacionalistas italianos. Por otra parte, el hijo de unos tejedores en el siglo XV estaba condenado toda la vida a ser analfabeto. Cristophoro Colombo no salió de Génova hasta cumplidos los 20 años, lo que contradice la afirmación de Colón a los RR CC de que navegó desde niño, y también contradice su experiencia. El hecho de que en los documentales de la tele, revistas, periódicos y en los libros se destaque siempre que es “italiano” descalifica ya al que lo hace, por la sencilla razón de que ningún historiador honesto emplearía ese calificativo en una época en que no es correcto. El Reino de Italia, nació el 17 de marzo de 1861, así como el término “italiano” para denominar a los habitantes de dicho reino.

20世紀になり(*1)各国のナショナリズムが高まるなか、多くの歴史学者がそれぞれの著作の中でコロンブスの出身地を明らかにしようとした。セファルディと呼ばれるスペイン系ユダヤ人であるとか、イタリア、イギリス、ギリシャ、コルシカ島、ポンテベドラ、プラセンシア、イビサ、グアダラハラ、ポルトガルなどが出身地として挙げられた。1476年8月13日、前述した内乱時の海戦でコロンブスが乗船していた船はポルトガル領ラゴス沖(サン・ビセンテ岬)で沈没したが、彼は一本のオールにしがみついて(ポルトガルの)海岸にたどり着いた。同地で1478年、貴族の娘フェリパ・モニスと結婚した。しかし、もしもイタリアの国粋主義者たちが主張するようにコロンブスが居酒屋亭主のドメニコ・コロンボと織工女のスザーナ・フォンタッローザの息子であったなら、貴族の娘と平民の組み合わせというこの結婚は当時にはありえないものである。また、15世紀、織工のこどもは生涯文盲から抜け出すことは出来なかった。イタリア人とされるコロンブスは20歳を過ぎるまでジェノヴァを出たことが無かったという。このことはコロンブスがカトリック両王に語った、子供のときから航海に出ていた、ということや彼の経験とも辻褄があわない。テレビや雑誌、新聞のドキュメンタリーや書物においていつも「コロンブスはイタリア人である」とされるが、それらの作者はそう定義する時点で既に信用できるものではない。なぜなら、信頼に足る歴史学者ならば当時にそぐわないこの「イタリア人」という言葉を使うことなどありえないからだ。イタリアの国民を指す「イタリア人」という言葉が成立するのはイタリア王国が誕生する1861年3月17日のことであるからだ

(*1)実に些細なことかも知れませんが、この表現だと、「今20世紀になってナショナリズムが高まってきたが…(つまり今は20世紀初頭であると言っている)」と理解されても致し方ない気がするのです。あくまでもここは「20世紀の…」だと思います